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    <title>未解決事件どっとこむ</title>
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    <description>未解決事件とは、犯人が逮捕、または判明・発覚などが一切できていない事件のことで、一般に捜査が行き詰まった場合や公訴時効が成立して未解決となった事件は「迷宮入り」とも言われる。英語では通称コールド・ケースともいう。日本の未解決事件、世界の未解決事件、歴史的事件を紹介します。未解決事件を風化させず多くの方の目に触れることにより、解決の糸口につながれば幸いです。楽天モバイルならスマホの料金が超お得！</description>
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      <title>グリコ・森永事件</title>
      <pubDate>Tue, 03 Nov 2020 13:00:00 +0900</pubDate>
            <description>グリコ・森永事件　1984年-1985年グリコ・森永事件（グリコ・もりながじけん）とは、1984年（昭和59年）と1985年（昭和60年）に、日本の阪神間（大阪府・兵庫県）を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。警察庁広域重要指定114号事件。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。2000年（平成12年）2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立し、この事件は完全犯罪となり、..</description>
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グリコ・森永事件　1984年-1985年グリコ・森永事件（グリコ・もりながじけん）とは、1984年（昭和59年）と1985年（昭和60年）に、日本の阪神間（大阪府・兵庫県）を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。
警察庁広域重要指定114号事件。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。
2000年（平成12年）2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立し、この事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。<a></a>
概要

1984年3月、江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。
その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。
現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。
犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。

その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。

1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。

2000年（平成12年）2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立。
警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。

2005年（平成17年）3月に除斥期間（民法第724条）が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。

企業への脅迫状とは別に報道機関や週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた。
同時期にこの事件と並行して話題となっていた三浦和義のロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い。

一連の事件

江崎グリコ社長誘拐事件
1984年3月18日21時ごろ、当時兵庫県西宮市に居住していた江崎グリコ社長江崎勝久の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り（家の外には車の運転手役の男がおり、犯行は3人組の男が実行している）、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪った。
2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。
その後、2人の男は浴室に侵入。
長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま誘拐した。
夫人はこの後、自力でテープをほどいて110番通報。

翌3月19日1時ごろ、大阪府高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話がある。
取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状があった。

この段階から、兵庫県・大阪府にまたがる重大事案として、兵庫県警察本部、大阪府警察本部による合同捜査体制が始まる。
その後、犯人の男から電話があり別の指定場所に身代金を持って来るよう要求したが、結局犯人は現れなかった。
犯人グループが要求した現金10億円は高さ9.5メートルで重量は130kg、これに加えて金塊100kgでは運搬が困難であり、合同捜査本部ではどこまで犯人グループが本気で要求していたのかいぶかる声もあったが、要求に従ってグリコはそれらを用意した。
社長の母や社長夫人が犯人に対して「お金なら出します」と言ったにもかかわらず「金はいらん」と犯人が答えたこと、身代金誘拐が目的なら抵抗される可能性が少ない7歳の社長長女を誘拐するほうがリスクが少ないのにわざわざ成人男性である江崎を誘拐していることなどが身代金目的の誘拐としては不可解な点であり、金目的ではなく怨恨が犯行の原因という説の根拠となった。

その後、誘拐事件は急展開する。
事件から3日後の3月21日14時30分ごろ、国鉄職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって江崎が保護された。
江崎の証言によると、大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から自力で抜け出したとされ、対岸に見えた大阪貨物ターミナル駅構内へ駆け込み、居合わせた作業員達によって無事に保護された。

江崎グリコ脅迫事件
1984年4月2日、江崎宅に差出人不明の脅迫状が届く。
内容は4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求。
脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。
4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。

4月8日には、犯人グループから大阪の毎日新聞とサンケイ新聞へ手紙が届く。
マスコミ宛に世間一般への公開を前提とした初めての挑戦状だった。
手紙には無署名で封筒の差出人名は江崎の名前を使っていた。

4月23日、江崎グリコに1億2000万円を要求する脅迫状が届く。
現金受け渡し日は4月24日に指定されていたが、レストランから名神高速道路吹田サービスエリア、電話ボックスと現金を受け渡す運転手をたらい回しにし、犯人は現金受け渡しに現れなかった。

同日にはマスコミ宛の2回目の挑戦状が送られており、これ以後、犯人グループは「かい人21面相」を自称するようになる。
このネーミングは江戸川乱歩の小説『少年探偵団』シリーズに登場する怪人二十面相に由来するものとみられる。

5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状が届く。
6月2日に摂津市内のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くことを指示。
6月2日、大阪府警察本部刑事部捜査第一課は特殊事件係を中心に30人体制で犯人を待ち受けた。
後部トランクに忍んだ捜査官がスイッチを押すことにより、エンジンをストップできる細工を施された車を駐車場に置き、周辺には特殊事件係が展開した。

20時45分頃、駐車場に不審な男が現れ、そのまま車に乗りこむ。
後部トランクの捜査官は無線機のトラブルにより連絡が取れなくなり、予定の地点よりも早くエンジンをストップさせた。
特殊事件係の捜査車両数台に包囲され、男は取り押さえられた。
しかし、男は犯人から脅されて、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示されただけで事件とは無関係と判明（後述の寝屋川アベック襲撃事件を参照）。
特殊事件係の捜査官数人は男が行く予定だった指定場所に捜査車両を急行させると、不審車両1台が走り去ろうとしたため追跡。
ところが、国道1号線の交差点で見失ってしまう。

6月26日、犯人グループからマスコミに挑戦状が届き、「こども なかせたら わしらも こまる 江崎グリコ ゆるしたる」と江崎グリコへの脅迫収束宣言をする。
この挑戦状で犯人グループは「ヨーロッパへ行く。来年1月に帰ってくる」と国外逃亡を示唆していたが、後日別の挑戦状で「警察がうるさくていけなかった。もうすぐ一仕事してから行くつもりだ」と述べ、国外逃亡を事実上断念している。

江崎グリコ本社放火事件
1984年4月10日20時50分頃、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。
火元は工務部試作室であり、火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150m²は全焼。

21時20分、本社から約3km離れたグリコ栄養食品でも車庫に止めてあったライトバンが放火される。
こちらはすぐに消し止められた。
犯人はガソリンの入った容器に布を詰めたものに火をつけていた。

出火の直後には、帽子を被った不審な男がバッグを抱えて逃げるのが目撃されている。

兵庫青酸菓子ばら撒き事件
1984年5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4社にかい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と挑戦状が届いた。

さらに挑戦状には全国にばらまくとの予告があり、挑戦状の終わりには「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていた。
その事態を受けて大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めた。

寝屋川アベック襲撃事件
1984年6月2日、グリコ脅迫事件において指定されたレストランの駐車場より約2.8km離れた寝屋川市で、商事会社に勤める男性と同僚で恋人の女性が車でデートしていた。
しかし、20時15分ごろ、停車中に男3人組に襲われる。
男性は元自衛官で腕力には自信があったが、さすがに3対1では敵わなかった。
男3人組は男性が無抵抗になるまで殴打を続け、その後車に乗せて黒い布袋をかぶせた。

1人は別の車に女性を連れ去り、残る2人組が男性の車に乗りこみ、男性はグリコ脅迫事件において指定されたレストランの近くまで運転しないと女性の命を保証しないと脅迫され、犯人の言われるままに行動。
レストランの近くまで運転すると降ろされ、駐車場にある車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示された。

その後この男性は、大阪府警察本部捜査第一課に犯人と誤認され身柄を確保されたが、事情聴取中に事件とは無関係なことが判明したため、誤認逮捕されることなく、すぐに放免された。

一方、女性は別の車に乗せられ、21時半ごろに降ろされた。
女性は犯人からタクシー代として2000円を渡されている。

6月3日未明、男性の車が寝屋川市の神社の参道に乗り捨ててあるのが発見された。

丸大食品脅迫事件
1984年6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届く。
内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものだった。

犯人はこの裏取引に応じる合図としてパート従業員募集の新聞広告の掲載を求め、高槻市の常務宅に現金をボストンバッグに用意して待機するよう要求。
大阪府警察本部に通報した丸大は要求を呑むことにした。

1984年6月28日20時3分、犯人からの電話があった。
女性による録音で指定場所に来るよう指示。

大阪府警察本部特殊事件係の刑事7人が丸大社員になりすまして指定場所に行くと、国鉄高槻駅で指定する時間の京都駅行き電車に乗って左側の窓に白い旗が見え次第車窓から金を詰めたボストンバッグを投げ落とせと指示するタイプ文字の指示書があった。

刑事はボストンバッグを投げ落とさず高槻駅から終点の京都駅まで乗ることになった。

刑事の1人は不審な男を発見。
キツネ目の不審男は丸大社員役の刑事を見張っていた。
さらに刑事達が乗った帰りの電車に、キツネ目の男が乗り込む。
刑事達はキツネ目の男を警戒する。

しかし、現金受渡し時に現行犯逮捕して犯人グループを一網打尽にする方針を採っていた捜査本部は、刑事に逮捕権限を与えず、命令があるまで接触しないよう行動を制限していたため、それ以上のことはできなかった。

結局、キツネ目の男は駅を下りると改札口を出た後の雑踏に紛れ、刑事はキツネ目の男の姿を見失った。

7月にも丸大食品取締役宅に現金を要求する脅迫状が届く。
7月6日20時7分、子供の声の録音で指定場所に来るよう指示。
場所の変更は4回にも及び、最後の指定場所に現金を詰めたバッグを置くよう指示があったが、結局犯人は現れなかった。

森永製菓脅迫事件が発覚した後の11月になって犯人がマスコミへの手紙に高槻市の食品会社を脅迫したとし「わるでもええ かい人21面相のようになってくれたら」と丸大食品のキャッチコピー「わんぱくでもいい たくましく育ってほしい」をもじった言葉を使ったことで、犯人が丸大食品へ脅迫したことが暴露されたため、丸大食品への脅迫が世間に知られるようになった。

森永製菓脅迫事件
1984年9月12日朝、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状が届く。
脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封されていた。
脅迫状には、グリコが犯人グループに6億円を支払ったと書かれていたが、真偽のほどは定かではない。

9月18日に犯人から関西支社に電話があり、子供の声で現金の受渡し場所を指定した内容の録音を、5回繰り返し再生した。
その後、指定場所に行くと別の指定場所で現金を置くよう指示があり、現金を置くも、犯人は姿を現さなかった。
この電話は10月11日に一般に公開された。

二府二県青酸入り菓子ばら撒き事件
1984年10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーやコンビニから不審な森永製品が相次いで発見された。
江崎勝久が当時居住していた自宅のすぐそばにあるコンビニもターゲットにされた。

「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が置かれており、菓子の中に青酸ソーダが混入されていた。
青酸入り菓子は13個発見された。

この間の10月8日には阪急百貨店などにも森永製品を置かないよう要求する脅迫状が届いた。
この脅迫状の中では「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」とまで宣言している。

10月15日にはNHK大阪放送局に青酸ソーダの錠剤が送りつけられた。
新聞各社への挑戦状にはこの青酸ソーダで何人殺せるかというクイズを出し、「賞品」は青酸入り森永製品、「宛先」は「刑死ちょう そうむ部きかく課長」（原文ママ）と記されていた。

ハウス食品脅迫事件
1984年11月7日、ハウス食品工業（現:ハウス食品グループ本社）総務部長宅に脅迫状が届く。
浦上郁夫社長の宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、受け渡し日は11月14日、場所は京都市伏見区のレストランと指定しており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入のハウスシチューと江崎グリコの江崎勝久社長を拉致監禁したときに社長の声を吹き込んだ録音テープが同封されていた。

11月14日、指定されたレストランの駐車場には1億円を積んだ車を待機させ、車内にはハウス社員に変装した大阪府警察本部特殊事件係の刑事が、周囲には京都府警察本部刑事部の刑事が多数配置された。

20時20分、脅迫状の予告通り犯人から総務部長宅に電話連絡がかかる。
女の子の声の録音で受け渡し場所を指定。
これを機に合同捜査本部は大阪・京都に刑事を多数配置した。
指定場所へ行くと別の場所を指定するメモが残されており、場所の変更は4回繰り返された。
この間、名神高速道路京都南インターチェンジ付近で、警戒中の京都府警察本部の刑事がキツネ目の男を発見し、合同捜査本部に報告する。
この日、キツネ目の男は3回にわたって刑事に目撃される。
幾度かの場所の変更指示によって、現金を乗せた車が大津サービスエリアに向かった。

滋賀県警察本部には合同捜査本部から現金授受への捜査共助を要請されていたが、「名神高速道路エリア内は大阪府警察本部員を配置するので、名神高速道路に入らないように」と言われていた。
しかし、滋賀県警察本部は突発事案に対応すべく刑事部捜査第一課の刑事2人を大津サービスエリアに配置する。
そして大津サービスエリアに配置された刑事はキツネ目の男を発見する。
キツネ目の男は尾行点検をしたり、ベンチに何かを張り付けるなどの特異動向があったものの、職務質問などは禁じられていたため、刑事はそのまま撤収したという。

滋賀県警の刑事が撤収した後、大津サービスエリアに到着した大阪府警の刑事は現金輸送車の様子を伺う不審者を目撃する。
不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃されたキツネ目の男と一致。
しかし刑事は尾行や職務質問する権限を与えられていなかったため、キツネ目の男はそのまま一般道路の方へ去って行った。

現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。
そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示を受ける。
現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津パーキングエリアから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。
道路管理局の巡回記録によると、14日20時50分から21時18分の間に取りつけられたものと判明。
しかも白い布が付けられた防護フェンス付近には無線通信が不能な場所があったため、合同捜査本部にとっては最悪の展開となる。
その場所は、県道川辺御園線が交差していた。
合同捜査本部はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。
犯人らしい男も姿を見せず、22時20分に捜査は打ち切られた。

一方、白い布があった場所の下を通る県道川辺御園線付近で、パトカーがパトロールをしており、一連の事件捜査を知らない滋賀県警の所轄署外勤課員が、夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。
外勤課員が職務質問するために白のライトバンに駆け寄り懐中電灯を照らすと、運転席に男がいた。
しかし、白のライトバンは急に発進。
白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。
21時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。
白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。
パトカーが不審車の前方をふさぐように停車せずに、横付けしたことを失策と指摘する論調もあった。
取り逃がした外勤課員は責任を取って後に辞職した。

11月19日、ハウス食品工業課長に脅迫状が届く。
11月14日の現金輸送車監視状況が書かれていた。
今は森永を相手にしており、暇になったら連絡するとも書かれており、事実上の脅迫休止宣言とも受け取れた。

12月11日、パトカーの乗員3人の証言を元に作成された不審車両の運転手の似顔絵が公開された。

不二家脅迫事件
1984年12月7日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。
脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていた。

12月15日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。
12月24日に大阪梅田の百貨店屋上から2000万円ばらまくことを要求。
不二家は従わなかった。

12月26日、東京のスーパー社長宅に脅迫状が届く。
1月5日に不二家が、池袋のビル屋上から2000万円ばらまくことを要求。
不二家は従わなかった。

1985年1月11日に不二家脅迫事件が初めて報道され、かい人21面相が不二家を脅迫していたことが明らかとなった。

なお、事件発生直前の12月4日にアマチュア無線の7MHz帯オフバンド（指定範囲外の周波数）にて「21面相、こちら玉三郎」「クスリは用意できたか」「ひと、ふた、ひと、ろく（12月16日と推定される）、航空券が往復確実に取れてR6（アマチュア無線での沖縄郵政管理事務所（現:沖縄総合通信事務所）の地域番号と推定される）へ行く場合は日帰りで必ずアシがつかないように戻ってくるように」「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのけ」「不二家あきらめたほうがええわなこりゃ」などいう「21面相」と「玉三郎」を名乗る2人の通信が北海道岩内郡のアマチュア無線家によって偶然にも傍受録音されていた（北海道テープ）。
捜査本部は犯人グループの可能性が高いと判断して、捜査が行われ、一部はマスコミ向けに公開された。

東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件
バレンタインデー直前の1985年2月13日に報道機関にバレンタインデー粉砕を主張する挑戦状が届く。
これと前後して東京都と愛知県で「どくいり きけん」と書かれたラベルが貼られた青酸入りチョコレートが相次いで発見される。
青酸の入ってないものには「どくなし あんしん」と書かれていた。
この事件では、脅迫の対象となったことのあるグリコ、森永、不二家のものに加えて、明治製菓とロッテのチョコレートもばらまかれていた。

駿河屋脅迫事件
1985年2月24日、マスコミに森永製菓への脅迫を終結させる休戦状が届いた。

その直後の3月6日、和歌山県の老舗和菓子会社の駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届く。

しかし、3月8日に犯人から現金受け渡しを延期する旨の通告が届く。
その後、犯人から駿河屋への連絡はなかった。

事件の終息
1985年8月7日、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が自身の退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺をする。
遺書は残されていないが、一般に失態を苦にしたものと解釈されている。
ハウス食品事件の失態の責任を全て負わされたことに抗議するための自殺だったとする説もある。
本部長はノンキャリアからの叩き上げであった。

8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。
理由は、その5日前に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。

脅迫状の届いた会社の一つであったハウス食品工業社長の浦上郁夫は、この事件の終息を同社の創業者で先代社長である自身の父親の靖介の墓前に報告するために8月12日に日本航空123便に搭乗し、その墜落事故で犠牲となった。

この終息宣言の後、完全に犯人の動きがなくなった。

1994年（平成6年）に江崎グリコ社長誘拐事件が公訴時効になり、捜査本部の体制は大幅に縮小される。

さらに2000年2月13日0時に東京・愛知で青酸入りの菓子をばらまいた2件の殺人未遂事件とこれにかかわる28件すべてに公訴時効が成立した。

事件の捜査に関わった捜査員の延べ人数は130万1千人、捜査対象は12万5千人と言われる。

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関連事件

53年テープ
事件発生の6年前の1978年（昭和53年）8月17日、グリコに金を要求するテープがグリコ常務に送られた事件である。
1時間弱のテープの内容は部落解放同盟幹部を名乗る初老の男性の声で、送り主の男は過激派の学生が江崎の誘拐、グリコへの放火、青酸入り菓子のばらまきなどの犯行と引き換えに、グリコに対して3億円を要求する計画を立てているとし、これらの犯行を抑えられないまでも3億円の要求額を1億7500万円に減額できるとして金を要求し、応じるなら指定した手法の新聞広告を出すこととなっていた（グリコは応じなかった）。
江崎の誘拐、グリコへの放火、青酸入り菓子のばらまき、連絡に新聞広告を使うなど、後のグリコへの犯行を予告するような内容であった。

このテープが届く2年前から、江崎グリコ常務宅に黄巾族と名乗る人物が手紙や電話で脅迫を続けていたという。

グリコ・森永事件の捜査本部はこの送り主の男をグリコ・森永事件の犯人グループの一味と断定して、犯人グループの一員と目された人物の声紋鑑定の材料にした。
同時にこのテープの存在が犯人グループの過激派説の一因ともなった。

1993年（平成5年）末に兵庫県警が53年テープを1分ほどに編集して公開した。

ニセ夜間金庫事件
1973年（昭和48年）に大阪で起きた大阪ニセ夜間金庫事件もグリコ・森永事件と関係があるのではないかと取り沙汰された。
1984年9月18日に森永に1億円を要求した際、マンホールの上に置いた衣装箱の底から1億円を奪取するというトリックじみた手口がニセ夜間金庫事件と類似しているというものであった。

タイレノール殺人事件
カプセルにシアン化合物を混入した無差別殺人事件。

事件の特徴

最初は単なる誘拐事件と思われていたが、大手食品会社が次々と脅迫され、実際にシアン化ナトリウム入りの食品がばら撒かれるなど、当時の社会に与えた影響は計り知れないものがあった。

企業への脅迫状とは別に、挑戦状を新聞社や週刊誌に送りつけ、その内容は「けいさつの あほども え」など、警察を挑発したりあざ笑うような内容が多い。
自分達の遺留品の細かい出所まで書いたり、失態の責任を取って焼身自殺した滋賀県警本部長（ノンキャリアながら本部長まで出世した人物であった）を「男らしゅうに」と表現し、それと対比させてキャリア出身の責任者を貶めたりするなどしていた。

犯行の際の遺留品の多さにもかかわらず、遺留品が大量かつ広範に流通された商品であったため、犯人の特定には至らなかった。
犯人グループの車両から採取されたELと呼ばれる特殊な電子部品の削りかすの廃棄物から捜査が行われたが、犯人に結びつく成果は得られなかった。
なお、犯人も終息宣言の後は一切活動をしていない。
警察発表では、犯人は何も得てはいないということになっているため、一連の犯行の目的が何であったかは不明のままである。
前述の通り、犯人側は1984年9月12日に森永製菓に送りつけた脅迫状の中で、グリコは6億円を支払ったとほのめかしているが、グリコをはじめとする被害にあったメーカーは犯人側への金の支払いを否定している。
一説には、脅迫を受けた企業の株価が乱高下しており、それにより利益を得た、あるいは株価の操作そのものが目的だったとする説もある。

脅迫事件において検挙の手がかりとなることの多い犯人と被害者との接触では、要求を伝える電話に子供の声を使用したり、現金の授受にあたって無関係な市民を拘禁・脅迫の上に受け取り役に仕立てるといった、従来の常識からは想定外の手口を使い、これも捜査を困難なものにした。
企業から犯人への連絡手段に対しては、犯人が企業に対して要求に応ずる合図として指定された方法での新聞広告を出すことを要求していたことが明らかになっている。

犯行の際に、犯人グループにより警察無線が傍受されていた。
当時の警察無線は、周波数さえ合わせれば一般人でも容易に傍受が可能なFM（アナログ）方式が主流であり、受信機器も簡単に入手できた。
この事件を契機に、すでに警視庁で一部導入が始まっていた傍受されても会話の内容が分からないよう暗号化されたデジタル方式への早期の全面移行を進めるきっかけにもなった。

グリコ・森永事件の捜査においては、警察は傍受を警戒して、当時、警視庁に数台しかなかったデジタル方式の警察無線で連絡を取っていた。

警察が殺人未遂事件として捜査したシアン化ナトリウム入り食品に関しても、『シアン化ナトリウムが入っていた食品には必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の紙が張られていたのでその罪状が当てはまらないのではないか？』とする意見がある。
この点の不備を補うべく、グリコ法こと流通食品への毒物の混入等の防止等に関する特別措置法が制定された。

犯人は1年半の間に、警察には挑戦状、企業と報道機関に脅迫状と挑戦状計144通を出している。

結果として毒入り食品による死者は発生せず、誘拐放火などにより命を落とした人もいなかった。
 犯人は同時期に世間を騒がせていた警察庁広域重要指定115号事件やロス疑惑についても言及をしている。

犯人像の推測

この事件の犯人については、 「北朝鮮の工作員」、「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元あるいは現職警察官、「元左翼活動家」、各種の陰謀説など多くの説があり、未だに議論は尽きていない。
キツネ目の男と呼ばれる不審者の似顔絵も作成された。

事件当時大阪府警本部長だった四方修は、昭和一桁世代のリーダーに実行犯グループが3,4人で女も含まれるグループと見ていた。

元グリコ関係者説
江崎家やグリコの内部事情に犯人グループが通じていたことから出た説である。

具体的には江崎誘拐の実行犯が江崎の長女の名前を呼んだこと、江崎誘拐における身代金要求の脅迫状で社長運転手の名前を名指ししたこと、世間一般にほとんど知られていないグリコの関連会社を知っていたこと、江崎を水防倉庫に監禁した際に江崎に着せていたコートが戦前から戦中にかけての江崎グリコ青年学校のものと似ていたこと、グリコがすぐ10億円を用意できることを知っていたことなどである。
ほかにも人質を取ったり放火したりしたことや、脅迫状ではグリコ以外の会社の社長を「羽賀」「松崎」「浦上」「藤井」と苗字で書く中で江崎社長のみ「勝久」と名前で書いていることなど他の企業を脅迫したときにはない特徴があることから、グループの中にグリコに怨みを持つ者がいるのではないかと言われる。

他にも53年テープの存在もグリコへの怨恨が原点にあるという説の補強材料になっている。

株価操作説
株価操作説の場合、1984年1月時点で745円だったグリコ株は、社長誘拐・工場放火事件があった翌日5月17日には、598円にまで下がっている。
すなわち、商品に不信を抱かれることによる株価下落を前提にすれば、結果24.5%の利益を得られたとも考えられる。
加えて事件の「終息宣言」を受けて値が戻ることも前提にすれば、底値と思われる時点で買いに転じて、さらに利益も得られる計算になる。

『週刊現代』で株式情報の担当記者をしたことのある作家の宮崎学は、単純に市場で株式売買するのではなく、企業に自社株を買い取らせる仕手で100億円の利益が得られる可能性を指摘している。
宮崎学に任意聴取した刑事も、この説を宮崎に述べたという。

警察でも、現金奪取はカムフラージュで株価操作による利益が目的だった可能性を考えて、事件に関係した企業の空売り・買い戻しで目立った動きをした人物や団体は徹底的にチェックしていた。
中でも当時ビデオセラーという会社を運営していた仕手グループは、最重要監視対象として目をつけられていたという。

被差別部落説
この事件に関しては、被差別部落関係者が関与しているという説もある。
その根拠は、9月18日の森永の男の子の声による脅迫テープを分析した結果、周辺環境の音の中に皮革製品に使用される独特のミシンの音が入っていたということ、犯人グループが使用したもののほとんどがマイノリティの多い町の近くのスーパーで購入されていたこと、というものであった。
しかし、被差別部落関係に対する捜査について作家の宮崎学は、部落解放同盟が抗議をしたため捜査が打ち切られたとしている。
被差別部落出身者の関与については、一橋文哉によるノンフィクション『闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相』でXとしてほのめかされ、この事件をモチーフにした高村薫の小説『レディ・ジョーカー』でも扱われている。

宮崎学説
犯人グループの一人と目されたキツネ目の男に酷似していること、過去にマスメディアを操作して警察と敵対したこと、会社を倒産させて借金を抱えていたこと、地理的条件やアウトローとの人脈から疑われたが、アリバイがあったことと物証がなかったことから、捜査が打ち切られた。
宮崎学は『噂の真相』1985年10月号で事件に関して語り、その後も1996年（平成8年）に出した自伝『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五十年』で触れたり、『グリコ・森永事件最重要参考人M』を著したりするなどした。
宮崎の友人の大谷昭宏は『グリコ・森永事件最重要参考人M』や同時期のテレビ番組で、宮崎のことを犯人として疑い、宮崎からの反論を受けた。
後に大谷は2005年に出演したテレビ番組の中で、「実はまだ少し疑っている」という旨を笑い話として述べた。
大谷は2007年（平成19年）6月に発行された『こちら大阪社会部+α社長誘拐スクープ編』のあとがきでも、同じ趣旨のことを述べた。

しかし、丸大食品事件とハウス食品事件でキツネ目の男を実際に2度にわたって目撃した唯一の捜査員は、手記で「一時期話題になったM氏など論外です」と宮崎学説を一蹴している。

北朝鮮工作員グループ
事件終結後に産経新聞1997年（平成9年）7月4日付朝刊や『週刊文春』で報じられた、捜査線上で浮上した北朝鮮の工作員関係者のグループである。
53年テープの声に似た兵庫県の貿易会社社長が北朝鮮の非合法活動の黒幕的存在で、その周辺にキツネ目の男やビデオの男によく似た人物がおり、江崎グリコ社長を恨む北朝鮮工作員との証言がある考古学者もグループに属していた。
犯人グループがグリコに要求していた100kgの金塊を持っていたことから、捜査が行われた。
ただし、これは北朝鮮の国家的謀略というものではなく、北朝鮮の金鉱山への開発投資に失敗して金策に困った北朝鮮工作員のグループの犯行ではないかというものだった。
しかしグループの中心とされた社長は1987年（昭和62年）にすでに死去しており、1998年（平成10年）に行われた首謀者と目された人物の声紋鑑定やグループ内でキツネ目の男やビデオの男と疑われた人物の面割捜査で、別人であるという結論があり、捜査が打ち切られたという。

元暴力団組長グループ
1990年（平成2年）ごろから捜査本部がターゲットに絞ったのが、暴力団の元組長の実業家を中心とするグループである。
元組長が1979年（昭和54年）にグリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去があること、元組長の銀行口座に被害にあった企業の関係者から3億円の入金があったこと、犯行に使われたのと同種の和文タイプライターやタクシー払い下げ車輌を親族が所有していること、グリコに恨みを持つ人物が周辺にいたこと、53年テープに登場する人物と接点があることなどが疑惑の根拠となった。
捜査本部は1992年（平成4年）3月に元組長を始めとするグループに任意同行を求めて事情聴取を行ったが、容疑を認める者は誰もおらず、物証もなかった。
主要なメンバーにはアリバイもあった。
捜査本部が最後に総力を挙げて取り組み、グリコ・森永事件の捜査史上最大とも言われるこのグループへの捜査だったが、これをもって事実上グリコ・森永事件の捜査は終了した。


この事件で江崎グリコに次いで脅迫されたのは丸大食品であったが、当初この事実は合同捜査本部により伏せられ、3社目に森永製菓が脅迫された事件を毎日新聞がスクープし連続脅迫が発覚、社会に衝撃を与えた（当局は当初、便乗犯であり誤報だとの態度をとったが、その後犯人側の声明文で確認された）。事件が「グリコ・丸大事件」ではなく「グリコ・森永事件」と呼ばれるのはこのためとみられる。

犯人グループは読売新聞社に宛てた挑戦状でおよそ30年前の1955年に森永製菓の関連会社である森永乳業が引き起こした森永ヒ素ミルク中毒事件を例に挙げ「森永 まえ ひそで どくのこわさ しっとるやないか」と森永製菓を挑発していた。
同じ挑戦状では明治製菓が当時売上げ1位で、グリコの次は明治が狙われると誰もがそう思う、だから明治（を標的にするの）はやめた、という旨も書かれている。

山瀬まみがTBSの『ブロードキャスター』で証言したところによると、山瀬の父親は森永製菓の社員だったため、当時の山瀬の家庭は事件の影響を受けた。安倍昭恵は父親が森永製菓の社長だったことから、本人にも警察の保護がついた。

作詞家の川内康範は、『週刊読売』誌上で犯人に対し私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひくように呼びかけたが、犯人グループは拒絶した。

俳優の京本政樹は、事件で使用された和文タイプライターと同じ型のものを使っていたので、一時、捜査線上に浮かんでいたことをテレビ番組で告白している。

河内音頭家元の河内家菊水丸は、事件をモチーフにした曲をいくつか発表している。
1984年に江崎グリコへの脅迫収束宣言に曲をつけた作品「グリコ事件終結宣言音頭」をカセットテープで発売し、1994年時点で約1万5000本を売り上げた。
「グリコ事件終結宣言音頭」を制作中に脅迫収束宣言のメモ書きを道に落とし、警察から事情聴取を受けたとラジオ番組で告白した。

アマチュア無線用の144MHz帯ハンディー機を受信改造して警察無線を傍受したり、不二家脅迫事件での無線でやり取りをするなど無線通信に対する知識も高いとされている。
ただし、専門職の域には達しない。
アマチュア無線機の一部の機種は基板上の簡単な工作で広帯域受信が可能だったからである。
これらの機種はアマチュア無線ショップで簡単に購入することができ、アマチュア無線の入門である電話級用であった（電話級アマチュア無線技士（現 第四級アマチュア無線技士）は、一時期「6歳児でも取れる国家資格」といわれ、物議をかもした）。
また改造方法などを掲載するラジオライフ誌があった。
このため、この面から犯人を絞り込むことは事実上不可能だった。

なお、ハウス食品脅迫事件では、人質事件以外では極めて稀な報道協定が締結された。
しかし、この協定には疑問の意見が噴出し、まず日本新聞協会に属さない新左翼系の『人民新聞』が報道し、続けて日本雑誌協会に属さない『噂の真相』の記事が決定打となって、『噂の真相』の発売日に事件未解決にもかかわらず、報道協定は解除された。
この報道協定の件は、犯人グループも「報道の自由の自殺やないか」と批判している。

犯人からの手紙にも登場する音響研究所所長の鈴木松美は、テレビ番組『平成日本のよふけ』（フジテレビ）や『ビーバップ!ハイヒール』（朝日放送）において、電話音声解析の結果、録音されたテープから流れる脅迫文の発信源である公衆電話、その脅迫文を朗読したと思しき子供・その声を録音した団地・部屋（鈴木は電話が繋がるまでの時間・声の主の方言やイントネーションなどから解析）まで特定出来たが、なぜかその後の捜査の進展はなかったようで、この件に関してなにか事情があったのかも含めて真相は分からないと述べた（声の主と思しき子供については「声変わり」もあり断定が出来なかった、とも述べている）。

1985年に起きた大阪連続バラバラ殺人事件では、犯人が「怪人22面相」とした犯行声明を警察に送り届けた。
最初はグリコ森永事件のかい人21面相を真似たいたずらと推測されたが、届いた手紙には当初公開していなかった殺害内容の詳細な記述があったことから犯人によるものと判明。
犯人は1995年（平成7年）に逮捕された。

1999年（平成11年）12月に大阪府摂津市で発生した身代金誘拐事件の摂津小2女児誘拐事件は、大阪・誘拐・関西弁・身代金受取場所指示などで、グリコ・森永事件と共通点が指摘されたが、2000年4月に犯人が逮捕され、関連はないことが判明している。

この事件により、グリコと森永は大打撃を受けた。
製品は一時撤去され、広告も半年にわたり自粛。
森永は当時放送されていたテレビアニメ『キン肉マン』のスポンサーを降板した。
その後両社は特別CMを放送して広告再開を果たしたのち、ともにロゴタイプを変更することとなる。

またこの事件以降、江崎グリコ製品の包装は、開封された場合元に戻せないように設計されている（一時期は商品に「Glico 安全包装」のロゴが入ったフィルム包装をかけていたこともあった）。

同時期にパラコート連続毒殺事件が発生したこともあり、食品業界全体が包装を不可逆なものにしていく流れとなった。

類似事件

本事件同様、市販の飲食物に毒物を混入した事件としては1977年の青酸コーラ無差別殺人事件がある。
この事件では東京で2名が死亡、大阪で1名が病院搬送となった。
その後、混入対象をコーラから、本件同様のチョコレートに変更した事件が発生したが、いずれも殺人については未遂に終わった。
そのうちの1件（2月14日の事件）では、社会的なメッセージを残すという本件にもつながる行為が見られた。

また1982年、アメリカで、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のタイレノールにシアン化カリウムが混入され、7名が死亡する事件(en:1982 Chicago Tylenol murders)が発生している。

事件が発生した1984年には、かい人21面相に便乗して模倣犯が食品企業を脅した企業恐喝事件が31件発生したが、全て摘発された（1984年の事件で唯一摘発されなかったのが、本家本元のグリコ・森永事件である）。
その後、事件を模倣した犯罪は444件に上り、うち206件が検挙された。
この中には小中学生がファミコンほしさにネスレ日本を恐喝する、という事件もあった。

1985年には、ニコチン入りの製品をばらまくと脅されたロッテが警察に届けずに、3000万円を支払う裏取引に応じた。
翌1986年（昭和61年）に再び5000万円の支払いを要求されたために、今度は警察に通報して当時55歳の22号と名乗っていた男は7月3日に逮捕された。
この事件でいったんは脅迫犯に屈して裏取引に応じたロッテは批判にさらされ、客の安全が第一だったと弁明した。

これらの便乗犯を、筑波大学教授の小田晋は「コバンザメ犯罪」と名付けた。
本物の犯人グループも脅迫状で偽者との取り引きに応じないように企業に呼びかけた。
なお、犯人グループは江崎勝久の声を録音したテープを同封することで自らが本物である証としていた。

台湾では千面人として報道され、グリコ・森永事件のかい人21面相は有名だったという。
1984年12月27日に台中市に住む34歳の男がグリコ・森永事件を真似て、インスタントラーメンに毒を入れ食品会社に日本円にして1億5千万円を要求したとして、41時間後に逮捕されるという事件があった。
さらに2005年5月、台湾・台中市のコンビニエンスストアの店頭で、シアン化物の混入された瓶入り栄養ドリンク「蛮牛」が置かれ、それを購入・飲用した4人が相次いでシアン化物中毒症状を引き起こし、うち男性1名が5月18日深夜に死亡、2名が重体となった。
この栄養ドリンクにはパソコンのプリンターで「有毒、勿喝」（毒入り。飲むな）と印刷されたシールが添付され、グリコ・森永事件を真似た悪質ないたずらとして現地マスコミが大々的に報道した。
台湾の衛生当局は保力達ブランドの商品を安全が確認されるまで発売しないように通達した。
5月27日に犯人の男が逮捕され、恐喝を目的としグリコ・森永事件を真似たものであると供述した（zh:毒蠻牛事件）。

この「グリコ森永事件」の発生から30年に当たる2014年、「怪人28号」なる人物名を名乗る男（年齢・氏名不詳）から、江崎宛に「あれから30年、お金も尽いてきた」などと書かれた脅迫状が送りつけられ、5000万円を要求する事件があった。
男は恐喝未遂で2014年11月30日に逮捕された が、グリコ森永事件との直接の関連については低いとされている。

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<div>グリコ・森永事件　1984年-1985年<br></div><div><span>グリコ・森永事件（グリコ・もりながじけん）とは、1984年（昭和59年）と1985年（昭和60年）に、日本の阪神間（大阪府・兵庫県）を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。</span><br></div><br />警察庁広域重要指定114号事件。<div><br>犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。</div><div><br />2000年（平成12年）2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立し、この事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。</div><a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br /><br />1984年3月、江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。<br />その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。<br />現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。<br />犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。<br /><br />その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。<br /><br />1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。<br /><br />2000年（平成12年）2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立。<br />警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。<br /><br />2005年（平成17年）3月に除斥期間（民法第724条）が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。<br /><br />企業への脅迫状とは別に報道機関や週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた。<br />同時期にこの事件と並行して話題となっていた三浦和義のロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">一連の事件</span></strong><br /><br /><span style="font-size:large;"><strong>江崎グリコ社長誘拐事件</strong></span><br />1984年3月18日21時ごろ、当時兵庫県西宮市に居住していた江崎グリコ社長江崎勝久の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り（家の外には車の運転手役の男がおり、犯行は3人組の男が実行している）、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪った。<br />2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。<br />その後、2人の男は浴室に侵入。<br />長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま誘拐した。<br />夫人はこの後、自力でテープをほどいて110番通報。<br /><br />翌3月19日1時ごろ、大阪府高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話がある。<br />取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状があった。<br /><br />この段階から、兵庫県・大阪府にまたがる重大事案として、兵庫県警察本部、大阪府警察本部による合同捜査体制が始まる。<br />その後、犯人の男から電話があり別の指定場所に身代金を持って来るよう要求したが、結局犯人は現れなかった。<br />犯人グループが要求した現金10億円は高さ9.5メートルで重量は130kg、これに加えて金塊100kgでは運搬が困難であり、合同捜査本部ではどこまで犯人グループが本気で要求していたのかいぶかる声もあったが、要求に従ってグリコはそれらを用意した。<br />社長の母や社長夫人が犯人に対して「お金なら出します」と言ったにもかかわらず「金はいらん」と犯人が答えたこと、身代金誘拐が目的なら抵抗される可能性が少ない7歳の社長長女を誘拐するほうがリスクが少ないのにわざわざ成人男性である江崎を誘拐していることなどが身代金目的の誘拐としては不可解な点であり、金目的ではなく怨恨が犯行の原因という説の根拠となった。<br /><br />その後、誘拐事件は急展開する。<br />事件から3日後の3月21日14時30分ごろ、国鉄職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって江崎が保護された。<br />江崎の証言によると、大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から自力で抜け出したとされ、対岸に見えた大阪貨物ターミナル駅構内へ駆け込み、居合わせた作業員達によって無事に保護された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">江崎グリコ脅迫事件</span></strong><br />1984年4月2日、江崎宅に差出人不明の脅迫状が届く。<br />内容は4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求。<br />脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。<br />4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。<br /><br />4月8日には、犯人グループから大阪の毎日新聞とサンケイ新聞へ手紙が届く。<br />マスコミ宛に世間一般への公開を前提とした初めての挑戦状だった。<br />手紙には無署名で封筒の差出人名は江崎の名前を使っていた。<br /><br />4月23日、江崎グリコに1億2000万円を要求する脅迫状が届く。<br />現金受け渡し日は4月24日に指定されていたが、レストランから名神高速道路吹田サービスエリア、電話ボックスと現金を受け渡す運転手をたらい回しにし、犯人は現金受け渡しに現れなかった。<br /><br />同日にはマスコミ宛の2回目の挑戦状が送られており、これ以後、犯人グループは「かい人21面相」を自称するようになる。<br />このネーミングは江戸川乱歩の小説『少年探偵団』シリーズに登場する怪人二十面相に由来するものとみられる。<br /><br />5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状が届く。<br />6月2日に摂津市内のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くことを指示。<br />6月2日、大阪府警察本部刑事部捜査第一課は特殊事件係を中心に30人体制で犯人を待ち受けた。<br />後部トランクに忍んだ捜査官がスイッチを押すことにより、エンジンをストップできる細工を施された車を駐車場に置き、周辺には特殊事件係が展開した。<br /><br />20時45分頃、駐車場に不審な男が現れ、そのまま車に乗りこむ。<br />後部トランクの捜査官は無線機のトラブルにより連絡が取れなくなり、予定の地点よりも早くエンジンをストップさせた。<br />特殊事件係の捜査車両数台に包囲され、男は取り押さえられた。<br />しかし、男は犯人から脅されて、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示されただけで事件とは無関係と判明（後述の寝屋川アベック襲撃事件を参照）。<br />特殊事件係の捜査官数人は男が行く予定だった指定場所に捜査車両を急行させると、不審車両1台が走り去ろうとしたため追跡。<br />ところが、国道1号線の交差点で見失ってしまう。<br /><br />6月26日、犯人グループからマスコミに挑戦状が届き、「こども なかせたら わしらも こまる 江崎グリコ ゆるしたる」と江崎グリコへの脅迫収束宣言をする。<br />この挑戦状で犯人グループは「ヨーロッパへ行く。来年1月に帰ってくる」と国外逃亡を示唆していたが、後日別の挑戦状で「警察がうるさくていけなかった。もうすぐ一仕事してから行くつもりだ」と述べ、国外逃亡を事実上断念している。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">江崎グリコ本社放火事件</span></strong><br />1984年4月10日20時50分頃、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。<br />火元は工務部試作室であり、火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150m²は全焼。<br /><br />21時20分、本社から約3km離れたグリコ栄養食品でも車庫に止めてあったライトバンが放火される。<br />こちらはすぐに消し止められた。<br />犯人はガソリンの入った容器に布を詰めたものに火をつけていた。<br /><br />出火の直後には、帽子を被った不審な男がバッグを抱えて逃げるのが目撃されている。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">兵庫青酸菓子ばら撒き事件</span></strong><br />1984年5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4社にかい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と挑戦状が届いた。<br /><br />さらに挑戦状には全国にばらまくとの予告があり、挑戦状の終わりには「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていた。<br />その事態を受けて大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">寝屋川アベック襲撃事件</span></strong><br />1984年6月2日、グリコ脅迫事件において指定されたレストランの駐車場より約2.8km離れた寝屋川市で、商事会社に勤める男性と同僚で恋人の女性が車でデートしていた。<br />しかし、20時15分ごろ、停車中に男3人組に襲われる。<br />男性は元自衛官で腕力には自信があったが、さすがに3対1では敵わなかった。<br />男3人組は男性が無抵抗になるまで殴打を続け、その後車に乗せて黒い布袋をかぶせた。<br /><br />1人は別の車に女性を連れ去り、残る2人組が男性の車に乗りこみ、男性はグリコ脅迫事件において指定されたレストランの近くまで運転しないと女性の命を保証しないと脅迫され、犯人の言われるままに行動。<br />レストランの近くまで運転すると降ろされ、駐車場にある車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示された。<br /><br />その後この男性は、大阪府警察本部捜査第一課に犯人と誤認され身柄を確保されたが、事情聴取中に事件とは無関係なことが判明したため、誤認逮捕されることなく、すぐに放免された。<br /><br />一方、女性は別の車に乗せられ、21時半ごろに降ろされた。<br />女性は犯人からタクシー代として2000円を渡されている。<br /><br />6月3日未明、男性の車が寝屋川市の神社の参道に乗り捨ててあるのが発見された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">丸大食品脅迫事件</span></strong><br />1984年6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届く。<br />内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものだった。<br /><br />犯人はこの裏取引に応じる合図としてパート従業員募集の新聞広告の掲載を求め、高槻市の常務宅に現金をボストンバッグに用意して待機するよう要求。<br />大阪府警察本部に通報した丸大は要求を呑むことにした。<br /><br />1984年6月28日20時3分、犯人からの電話があった。<br />女性による録音で指定場所に来るよう指示。<br /><br />大阪府警察本部特殊事件係の刑事7人が丸大社員になりすまして指定場所に行くと、国鉄高槻駅で指定する時間の京都駅行き電車に乗って左側の窓に白い旗が見え次第車窓から金を詰めたボストンバッグを投げ落とせと指示するタイプ文字の指示書があった。<br /><br />刑事はボストンバッグを投げ落とさず高槻駅から終点の京都駅まで乗ることになった。<br /><br />刑事の1人は不審な男を発見。<br />キツネ目の不審男は丸大社員役の刑事を見張っていた。<br />さらに刑事達が乗った帰りの電車に、キツネ目の男が乗り込む。<br />刑事達はキツネ目の男を警戒する。<br /><br />しかし、現金受渡し時に現行犯逮捕して犯人グループを一網打尽にする方針を採っていた捜査本部は、刑事に逮捕権限を与えず、命令があるまで接触しないよう行動を制限していたため、それ以上のことはできなかった。<br /><br />結局、キツネ目の男は駅を下りると改札口を出た後の雑踏に紛れ、刑事はキツネ目の男の姿を見失った。<br /><br />7月にも丸大食品取締役宅に現金を要求する脅迫状が届く。<br />7月6日20時7分、子供の声の録音で指定場所に来るよう指示。<br />場所の変更は4回にも及び、最後の指定場所に現金を詰めたバッグを置くよう指示があったが、結局犯人は現れなかった。<br /><br />森永製菓脅迫事件が発覚した後の11月になって犯人がマスコミへの手紙に高槻市の食品会社を脅迫したとし「わるでもええ かい人21面相のようになってくれたら」と丸大食品のキャッチコピー「わんぱくでもいい たくましく育ってほしい」をもじった言葉を使ったことで、犯人が丸大食品へ脅迫したことが暴露されたため、丸大食品への脅迫が世間に知られるようになった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">森永製菓脅迫事件</span></strong><br />1984年9月12日朝、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状が届く。<br />脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封されていた。<br />脅迫状には、グリコが犯人グループに6億円を支払ったと書かれていたが、真偽のほどは定かではない。<br /><br />9月18日に犯人から関西支社に電話があり、子供の声で現金の受渡し場所を指定した内容の録音を、5回繰り返し再生した。<br />その後、指定場所に行くと別の指定場所で現金を置くよう指示があり、現金を置くも、犯人は姿を現さなかった。<br />この電話は10月11日に一般に公開された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">二府二県青酸入り菓子ばら撒き事件</span></strong><br />1984年10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーやコンビニから不審な森永製品が相次いで発見された。<br />江崎勝久が当時居住していた自宅のすぐそばにあるコンビニもターゲットにされた。<br /><br />「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が置かれており、菓子の中に青酸ソーダが混入されていた。<br />青酸入り菓子は13個発見された。<br /><br />この間の10月8日には阪急百貨店などにも森永製品を置かないよう要求する脅迫状が届いた。<br />この脅迫状の中では「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」とまで宣言している。<br /><br />10月15日にはNHK大阪放送局に青酸ソーダの錠剤が送りつけられた。<br />新聞各社への挑戦状にはこの青酸ソーダで何人殺せるかというクイズを出し、「賞品」は青酸入り森永製品、「宛先」は「刑死ちょう そうむ部きかく課長」（原文ママ）と記されていた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">ハウス食品脅迫事件</span></strong><br />1984年11月7日、ハウス食品工業（現:ハウス食品グループ本社）総務部長宅に脅迫状が届く。<br />浦上郁夫社長の宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、受け渡し日は11月14日、場所は京都市伏見区のレストランと指定しており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入のハウスシチューと江崎グリコの江崎勝久社長を拉致監禁したときに社長の声を吹き込んだ録音テープが同封されていた。<br /><br />11月14日、指定されたレストランの駐車場には1億円を積んだ車を待機させ、車内にはハウス社員に変装した大阪府警察本部特殊事件係の刑事が、周囲には京都府警察本部刑事部の刑事が多数配置された。<br /><br />20時20分、脅迫状の予告通り犯人から総務部長宅に電話連絡がかかる。<br />女の子の声の録音で受け渡し場所を指定。<br />これを機に合同捜査本部は大阪・京都に刑事を多数配置した。<br />指定場所へ行くと別の場所を指定するメモが残されており、場所の変更は4回繰り返された。<br />この間、名神高速道路京都南インターチェンジ付近で、警戒中の京都府警察本部の刑事がキツネ目の男を発見し、合同捜査本部に報告する。<br />この日、キツネ目の男は3回にわたって刑事に目撃される。<br />幾度かの場所の変更指示によって、現金を乗せた車が大津サービスエリアに向かった。<br /><br />滋賀県警察本部には合同捜査本部から現金授受への捜査共助を要請されていたが、「名神高速道路エリア内は大阪府警察本部員を配置するので、名神高速道路に入らないように」と言われていた。<br />しかし、滋賀県警察本部は突発事案に対応すべく刑事部捜査第一課の刑事2人を大津サービスエリアに配置する。<br />そして大津サービスエリアに配置された刑事はキツネ目の男を発見する。<br />キツネ目の男は尾行点検をしたり、ベンチに何かを張り付けるなどの特異動向があったものの、職務質問などは禁じられていたため、刑事はそのまま撤収したという。<br /><br />滋賀県警の刑事が撤収した後、大津サービスエリアに到着した大阪府警の刑事は現金輸送車の様子を伺う不審者を目撃する。<br />不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃されたキツネ目の男と一致。<br />しかし刑事は尾行や職務質問する権限を与えられていなかったため、キツネ目の男はそのまま一般道路の方へ去って行った。<br /><br />現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。<br />そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示を受ける。<br />現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津パーキングエリアから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。<br />道路管理局の巡回記録によると、14日20時50分から21時18分の間に取りつけられたものと判明。<br />しかも白い布が付けられた防護フェンス付近には無線通信が不能な場所があったため、合同捜査本部にとっては最悪の展開となる。<br />その場所は、県道川辺御園線が交差していた。<br />合同捜査本部はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。<br />犯人らしい男も姿を見せず、22時20分に捜査は打ち切られた。<br /><br />一方、白い布があった場所の下を通る県道川辺御園線付近で、パトカーがパトロールをしており、一連の事件捜査を知らない滋賀県警の所轄署外勤課員が、夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。<br />外勤課員が職務質問するために白のライトバンに駆け寄り懐中電灯を照らすと、運転席に男がいた。<br />しかし、白のライトバンは急に発進。<br />白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。<br />21時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。<br />白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。<br />パトカーが不審車の前方をふさぐように停車せずに、横付けしたことを失策と指摘する論調もあった。<br />取り逃がした外勤課員は責任を取って後に辞職した。<br /><br />11月19日、ハウス食品工業課長に脅迫状が届く。<br />11月14日の現金輸送車監視状況が書かれていた。<br />今は森永を相手にしており、暇になったら連絡するとも書かれており、事実上の脅迫休止宣言とも受け取れた。<br /><br />12月11日、パトカーの乗員3人の証言を元に作成された不審車両の運転手の似顔絵が公開された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">不二家脅迫事件</span></strong><br />1984年12月7日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。<br />脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていた。<br /><br />12月15日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。<br />12月24日に大阪梅田の百貨店屋上から2000万円ばらまくことを要求。<br />不二家は従わなかった。<br /><br />12月26日、東京のスーパー社長宅に脅迫状が届く。<br />1月5日に不二家が、池袋のビル屋上から2000万円ばらまくことを要求。<br />不二家は従わなかった。<br /><br />1985年1月11日に不二家脅迫事件が初めて報道され、かい人21面相が不二家を脅迫していたことが明らかとなった。<br /><br />なお、事件発生直前の12月4日にアマチュア無線の7MHz帯オフバンド（指定範囲外の周波数）にて「21面相、こちら玉三郎」「クスリは用意できたか」「ひと、ふた、ひと、ろく（12月16日と推定される）、航空券が往復確実に取れてR6（アマチュア無線での沖縄郵政管理事務所（現:沖縄総合通信事務所）の地域番号と推定される）へ行く場合は日帰りで必ずアシがつかないように戻ってくるように」「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのけ」「不二家あきらめたほうがええわなこりゃ」などいう「21面相」と「玉三郎」を名乗る2人の通信が北海道岩内郡のアマチュア無線家によって偶然にも傍受録音されていた（北海道テープ）。<br />捜査本部は犯人グループの可能性が高いと判断して、捜査が行われ、一部はマスコミ向けに公開された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件</span></strong><br />バレンタインデー直前の1985年2月13日に報道機関にバレンタインデー粉砕を主張する挑戦状が届く。<br />これと前後して東京都と愛知県で「どくいり きけん」と書かれたラベルが貼られた青酸入りチョコレートが相次いで発見される。<br />青酸の入ってないものには「どくなし あんしん」と書かれていた。<br />この事件では、脅迫の対象となったことのあるグリコ、森永、不二家のものに加えて、明治製菓とロッテのチョコレートもばらまかれていた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">駿河屋脅迫事件</span></strong><br />1985年2月24日、マスコミに森永製菓への脅迫を終結させる休戦状が届いた。<br /><br />その直後の3月6日、和歌山県の老舗和菓子会社の駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届く。<br /><br />しかし、3月8日に犯人から現金受け渡しを延期する旨の通告が届く。<br />その後、犯人から駿河屋への連絡はなかった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の終息</span></strong><br />1985年8月7日、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が自身の退職の日に本部長公舎の庭で焼身自殺をする。<br />遺書は残されていないが、一般に失態を苦にしたものと解釈されている。<br />ハウス食品事件の失態の責任を全て負わされたことに抗議するための自殺だったとする説もある。<br />本部長はノンキャリアからの叩き上げであった。<br /><br />8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。<br />理由は、その5日前に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。<br /><br />脅迫状の届いた会社の一つであったハウス食品工業社長の浦上郁夫は、この事件の終息を同社の創業者で先代社長である自身の父親の靖介の墓前に報告するために8月12日に日本航空123便に搭乗し、その墜落事故で犠牲となった。<br /><br />この終息宣言の後、完全に犯人の動きがなくなった。<br /><br />1994年（平成6年）に江崎グリコ社長誘拐事件が公訴時効になり、捜査本部の体制は大幅に縮小される。<br /><br />さらに2000年2月13日0時に東京・愛知で青酸入りの菓子をばらまいた2件の殺人未遂事件とこれにかかわる28件すべてに公訴時効が成立した。<br /><br />事件の捜査に関わった捜査員の延べ人数は130万1千人、捜査対象は12万5千人と言われる。<br /><br /><div style="text-align:center;"><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+AY4Z8Y+1WP2+63H8H" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="468" height="60" alt="" src="https://www24.a8.net/svt/bgt?aid=200609660662&wid=001&eno=01&mid=s00000008903001024000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www10.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+AY4Z8Y+1WP2+63H8H" alt=""><br /></div><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">関連事件</span></strong><br /><br /><strong>53年テープ</strong><br />事件発生の6年前の1978年（昭和53年）8月17日、グリコに金を要求するテープがグリコ常務に送られた事件である。<br />1時間弱のテープの内容は部落解放同盟幹部を名乗る初老の男性の声で、送り主の男は過激派の学生が江崎の誘拐、グリコへの放火、青酸入り菓子のばらまきなどの犯行と引き換えに、グリコに対して3億円を要求する計画を立てているとし、これらの犯行を抑えられないまでも3億円の要求額を1億7500万円に減額できるとして金を要求し、応じるなら指定した手法の新聞広告を出すこととなっていた（グリコは応じなかった）。<br />江崎の誘拐、グリコへの放火、青酸入り菓子のばらまき、連絡に新聞広告を使うなど、後のグリコへの犯行を予告するような内容であった。<br /><br />このテープが届く2年前から、江崎グリコ常務宅に黄巾族と名乗る人物が手紙や電話で脅迫を続けていたという。<br /><br />グリコ・森永事件の捜査本部はこの送り主の男をグリコ・森永事件の犯人グループの一味と断定して、犯人グループの一員と目された人物の声紋鑑定の材料にした。<br />同時にこのテープの存在が犯人グループの過激派説の一因ともなった。<br /><br />1993年（平成5年）末に兵庫県警が53年テープを1分ほどに編集して公開した。<br /><br /><strong>ニセ夜間金庫事件</strong><br />1973年（昭和48年）に大阪で起きた大阪ニセ夜間金庫事件もグリコ・森永事件と関係があるのではないかと取り沙汰された。<br />1984年9月18日に森永に1億円を要求した際、マンホールの上に置いた衣装箱の底から1億円を奪取するというトリックじみた手口がニセ夜間金庫事件と類似しているというものであった。<br /><br /><strong>タイレノール殺人事件</strong><br />カプセルにシアン化合物を混入した無差別殺人事件。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の特徴</span></strong><br /><br />最初は単なる誘拐事件と思われていたが、大手食品会社が次々と脅迫され、実際にシアン化ナトリウム入りの食品がばら撒かれるなど、当時の社会に与えた影響は計り知れないものがあった。<br /><br />企業への脅迫状とは別に、挑戦状を新聞社や週刊誌に送りつけ、その内容は「けいさつの あほども え」など、警察を挑発したりあざ笑うような内容が多い。<br />自分達の遺留品の細かい出所まで書いたり、失態の責任を取って焼身自殺した滋賀県警本部長（ノンキャリアながら本部長まで出世した人物であった）を「男らしゅうに」と表現し、それと対比させてキャリア出身の責任者を貶めたりするなどしていた。<br /><br />犯行の際の遺留品の多さにもかかわらず、遺留品が大量かつ広範に流通された商品であったため、犯人の特定には至らなかった。<br />犯人グループの車両から採取されたELと呼ばれる特殊な電子部品の削りかすの廃棄物から捜査が行われたが、犯人に結びつく成果は得られなかった。<br />なお、犯人も終息宣言の後は一切活動をしていない。<br />警察発表では、犯人は何も得てはいないということになっているため、一連の犯行の目的が何であったかは不明のままである。<br />前述の通り、犯人側は1984年9月12日に森永製菓に送りつけた脅迫状の中で、グリコは6億円を支払ったとほのめかしているが、グリコをはじめとする被害にあったメーカーは犯人側への金の支払いを否定している。<br />一説には、脅迫を受けた企業の株価が乱高下しており、それにより利益を得た、あるいは株価の操作そのものが目的だったとする説もある。<br /><br />脅迫事件において検挙の手がかりとなることの多い犯人と被害者との接触では、要求を伝える電話に子供の声を使用したり、現金の授受にあたって無関係な市民を拘禁・脅迫の上に受け取り役に仕立てるといった、従来の常識からは想定外の手口を使い、これも捜査を困難なものにした。<br />企業から犯人への連絡手段に対しては、犯人が企業に対して要求に応ずる合図として指定された方法での新聞広告を出すことを要求していたことが明らかになっている。<br /><br />犯行の際に、犯人グループにより警察無線が傍受されていた。<br />当時の警察無線は、周波数さえ合わせれば一般人でも容易に傍受が可能なFM（アナログ）方式が主流であり、受信機器も簡単に入手できた。<br />この事件を契機に、すでに警視庁で一部導入が始まっていた傍受されても会話の内容が分からないよう暗号化されたデジタル方式への早期の全面移行を進めるきっかけにもなった。<br /><br />グリコ・森永事件の捜査においては、警察は傍受を警戒して、当時、警視庁に数台しかなかったデジタル方式の警察無線で連絡を取っていた。<br /><br />警察が殺人未遂事件として捜査したシアン化ナトリウム入り食品に関しても、『シアン化ナトリウムが入っていた食品には必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の紙が張られていたのでその罪状が当てはまらないのではないか？』とする意見がある。<br />この点の不備を補うべく、グリコ法こと流通食品への毒物の混入等の防止等に関する特別措置法が制定された。<br /><br />犯人は1年半の間に、警察には挑戦状、企業と報道機関に脅迫状と挑戦状計144通を出している。<br /><br />結果として毒入り食品による死者は発生せず、誘拐放火などにより命を落とした人もいなかった。<br /> 犯人は同時期に世間を騒がせていた警察庁広域重要指定115号事件やロス疑惑についても言及をしている。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">犯人像の推測</span></strong><br /><br />この事件の犯人については、 「北朝鮮の工作員」、「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元あるいは現職警察官、「元左翼活動家」、各種の陰謀説など多くの説があり、未だに議論は尽きていない。<br />キツネ目の男と呼ばれる不審者の似顔絵も作成された。<br /><br />事件当時大阪府警本部長だった四方修は、昭和一桁世代のリーダーに実行犯グループが3,4人で女も含まれるグループと見ていた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">元グリコ関係者説</span></strong><br />江崎家やグリコの内部事情に犯人グループが通じていたことから出た説である。<br /><br />具体的には江崎誘拐の実行犯が江崎の長女の名前を呼んだこと、江崎誘拐における身代金要求の脅迫状で社長運転手の名前を名指ししたこと、世間一般にほとんど知られていないグリコの関連会社を知っていたこと、江崎を水防倉庫に監禁した際に江崎に着せていたコートが戦前から戦中にかけての江崎グリコ青年学校のものと似ていたこと、グリコがすぐ10億円を用意できることを知っていたことなどである。<br />ほかにも人質を取ったり放火したりしたことや、脅迫状ではグリコ以外の会社の社長を「羽賀」「松崎」「浦上」「藤井」と苗字で書く中で江崎社長のみ「勝久」と名前で書いていることなど他の企業を脅迫したときにはない特徴があることから、グループの中にグリコに怨みを持つ者がいるのではないかと言われる。<br /><br />他にも53年テープの存在もグリコへの怨恨が原点にあるという説の補強材料になっている。<br /><br /><strong>株価操作説</strong><br />株価操作説の場合、1984年1月時点で745円だったグリコ株は、社長誘拐・工場放火事件があった翌日5月17日には、598円にまで下がっている。<br />すなわち、商品に不信を抱かれることによる株価下落を前提にすれば、結果24.5%の利益を得られたとも考えられる。<br />加えて事件の「終息宣言」を受けて値が戻ることも前提にすれば、底値と思われる時点で買いに転じて、さらに利益も得られる計算になる。<br /><br />『週刊現代』で株式情報の担当記者をしたことのある作家の宮崎学は、単純に市場で株式売買するのではなく、企業に自社株を買い取らせる仕手で100億円の利益が得られる可能性を指摘している。<br />宮崎学に任意聴取した刑事も、この説を宮崎に述べたという。<br /><br />警察でも、現金奪取はカムフラージュで株価操作による利益が目的だった可能性を考えて、事件に関係した企業の空売り・買い戻しで目立った動きをした人物や団体は徹底的にチェックしていた。<br />中でも当時ビデオセラーという会社を運営していた仕手グループは、最重要監視対象として目をつけられていたという。<br /><br /><strong>被差別部落説</strong><br />この事件に関しては、被差別部落関係者が関与しているという説もある。<br />その根拠は、9月18日の森永の男の子の声による脅迫テープを分析した結果、周辺環境の音の中に皮革製品に使用される独特のミシンの音が入っていたということ、犯人グループが使用したもののほとんどがマイノリティの多い町の近くのスーパーで購入されていたこと、というものであった。<br />しかし、被差別部落関係に対する捜査について作家の宮崎学は、部落解放同盟が抗議をしたため捜査が打ち切られたとしている。<br />被差別部落出身者の関与については、一橋文哉によるノンフィクション『闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相』でXとしてほのめかされ、この事件をモチーフにした高村薫の小説『レディ・ジョーカー』でも扱われている。<br /><br /><strong>宮崎学説</strong><br />犯人グループの一人と目されたキツネ目の男に酷似していること、過去にマスメディアを操作して警察と敵対したこと、会社を倒産させて借金を抱えていたこと、地理的条件やアウトローとの人脈から疑われたが、アリバイがあったことと物証がなかったことから、捜査が打ち切られた。<br />宮崎学は『噂の真相』1985年10月号で事件に関して語り、その後も1996年（平成8年）に出した自伝『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五十年』で触れたり、『グリコ・森永事件最重要参考人M』を著したりするなどした。<br />宮崎の友人の大谷昭宏は『グリコ・森永事件最重要参考人M』や同時期のテレビ番組で、宮崎のことを犯人として疑い、宮崎からの反論を受けた。<br />後に大谷は2005年に出演したテレビ番組の中で、「実はまだ少し疑っている」という旨を笑い話として述べた。<br />大谷は2007年（平成19年）6月に発行された『こちら大阪社会部+α社長誘拐スクープ編』のあとがきでも、同じ趣旨のことを述べた。<br /><br />しかし、丸大食品事件とハウス食品事件でキツネ目の男を実際に2度にわたって目撃した唯一の捜査員は、手記で「一時期話題になったM氏など論外です」と宮崎学説を一蹴している。<br /><br /><strong>北朝鮮工作員グループ</strong><br />事件終結後に産経新聞1997年（平成9年）7月4日付朝刊や『週刊文春』で報じられた、捜査線上で浮上した北朝鮮の工作員関係者のグループである。<br />53年テープの声に似た兵庫県の貿易会社社長が北朝鮮の非合法活動の黒幕的存在で、その周辺にキツネ目の男やビデオの男によく似た人物がおり、江崎グリコ社長を恨む北朝鮮工作員との証言がある考古学者もグループに属していた。<br />犯人グループがグリコに要求していた100kgの金塊を持っていたことから、捜査が行われた。<br />ただし、これは北朝鮮の国家的謀略というものではなく、北朝鮮の金鉱山への開発投資に失敗して金策に困った北朝鮮工作員のグループの犯行ではないかというものだった。<br />しかしグループの中心とされた社長は1987年（昭和62年）にすでに死去しており、1998年（平成10年）に行われた首謀者と目された人物の声紋鑑定やグループ内でキツネ目の男やビデオの男と疑われた人物の面割捜査で、別人であるという結論があり、捜査が打ち切られたという。<br /><br /><strong>元暴力団組長グループ</strong><br />1990年（平成2年）ごろから捜査本部がターゲットに絞ったのが、暴力団の元組長の実業家を中心とするグループである。<br />元組長が1979年（昭和54年）にグリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去があること、元組長の銀行口座に被害にあった企業の関係者から3億円の入金があったこと、犯行に使われたのと同種の和文タイプライターやタクシー払い下げ車輌を親族が所有していること、グリコに恨みを持つ人物が周辺にいたこと、53年テープに登場する人物と接点があることなどが疑惑の根拠となった。<br />捜査本部は1992年（平成4年）3月に元組長を始めとするグループに任意同行を求めて事情聴取を行ったが、容疑を認める者は誰もおらず、物証もなかった。<br />主要なメンバーにはアリバイもあった。<br />捜査本部が最後に総力を挙げて取り組み、グリコ・森永事件の捜査史上最大とも言われるこのグループへの捜査だったが、これをもって事実上グリコ・森永事件の捜査は終了した。<br /><br /><br />この事件で江崎グリコに次いで脅迫されたのは丸大食品であったが、当初この事実は合同捜査本部により伏せられ、3社目に森永製菓が脅迫された事件を毎日新聞がスクープし連続脅迫が発覚、社会に衝撃を与えた（当局は当初、便乗犯であり誤報だとの態度をとったが、その後犯人側の声明文で確認された）。事件が「グリコ・丸大事件」ではなく「グリコ・森永事件」と呼ばれるのはこのためとみられる。<br /><br />犯人グループは読売新聞社に宛てた挑戦状でおよそ30年前の1955年に森永製菓の関連会社である森永乳業が引き起こした森永ヒ素ミルク中毒事件を例に挙げ「森永 まえ ひそで どくのこわさ しっとるやないか」と森永製菓を挑発していた。<br />同じ挑戦状では明治製菓が当時売上げ1位で、グリコの次は明治が狙われると誰もがそう思う、だから明治（を標的にするの）はやめた、という旨も書かれている。<br /><br />山瀬まみがTBSの『ブロードキャスター』で証言したところによると、山瀬の父親は森永製菓の社員だったため、当時の山瀬の家庭は事件の影響を受けた。安倍昭恵は父親が森永製菓の社長だったことから、本人にも警察の保護がついた。<br /><br />作詞家の川内康範は、『週刊読売』誌上で犯人に対し私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひくように呼びかけたが、犯人グループは拒絶した。<br /><br />俳優の京本政樹は、事件で使用された和文タイプライターと同じ型のものを使っていたので、一時、捜査線上に浮かんでいたことをテレビ番組で告白している。<br /><br />河内音頭家元の河内家菊水丸は、事件をモチーフにした曲をいくつか発表している。<br />1984年に江崎グリコへの脅迫収束宣言に曲をつけた作品「グリコ事件終結宣言音頭」をカセットテープで発売し、1994年時点で約1万5000本を売り上げた。<br />「グリコ事件終結宣言音頭」を制作中に脅迫収束宣言のメモ書きを道に落とし、警察から事情聴取を受けたとラジオ番組で告白した。<br /><br />アマチュア無線用の144MHz帯ハンディー機を受信改造して警察無線を傍受したり、不二家脅迫事件での無線でやり取りをするなど無線通信に対する知識も高いとされている。<br />ただし、専門職の域には達しない。<br />アマチュア無線機の一部の機種は基板上の簡単な工作で広帯域受信が可能だったからである。<br />これらの機種はアマチュア無線ショップで簡単に購入することができ、アマチュア無線の入門である電話級用であった（電話級アマチュア無線技士（現 第四級アマチュア無線技士）は、一時期「6歳児でも取れる国家資格」といわれ、物議をかもした）。<br />また改造方法などを掲載するラジオライフ誌があった。<br />このため、この面から犯人を絞り込むことは事実上不可能だった。<br /><br />なお、ハウス食品脅迫事件では、人質事件以外では極めて稀な報道協定が締結された。<br />しかし、この協定には疑問の意見が噴出し、まず日本新聞協会に属さない新左翼系の『人民新聞』が報道し、続けて日本雑誌協会に属さない『噂の真相』の記事が決定打となって、『噂の真相』の発売日に事件未解決にもかかわらず、報道協定は解除された。<br />この報道協定の件は、犯人グループも「報道の自由の自殺やないか」と批判している。<br /><br />犯人からの手紙にも登場する音響研究所所長の鈴木松美は、テレビ番組『平成日本のよふけ』（フジテレビ）や『ビーバップ!ハイヒール』（朝日放送）において、電話音声解析の結果、録音されたテープから流れる脅迫文の発信源である公衆電話、その脅迫文を朗読したと思しき子供・その声を録音した団地・部屋（鈴木は電話が繋がるまでの時間・声の主の方言やイントネーションなどから解析）まで特定出来たが、なぜかその後の捜査の進展はなかったようで、この件に関してなにか事情があったのかも含めて真相は分からないと述べた（声の主と思しき子供については「声変わり」もあり断定が出来なかった、とも述べている）。<br /><br />1985年に起きた大阪連続バラバラ殺人事件では、犯人が「怪人22面相」とした犯行声明を警察に送り届けた。<br />最初はグリコ森永事件のかい人21面相を真似たいたずらと推測されたが、届いた手紙には当初公開していなかった殺害内容の詳細な記述があったことから犯人によるものと判明。<br />犯人は1995年（平成7年）に逮捕された。<br /><br />1999年（平成11年）12月に大阪府摂津市で発生した身代金誘拐事件の摂津小2女児誘拐事件は、大阪・誘拐・関西弁・身代金受取場所指示などで、グリコ・森永事件と共通点が指摘されたが、2000年4月に犯人が逮捕され、関連はないことが判明している。<br /><br />この事件により、グリコと森永は大打撃を受けた。<br />製品は一時撤去され、広告も半年にわたり自粛。<br />森永は当時放送されていたテレビアニメ『キン肉マン』のスポンサーを降板した。<br />その後両社は特別CMを放送して広告再開を果たしたのち、ともにロゴタイプを変更することとなる。<br /><br />またこの事件以降、江崎グリコ製品の包装は、開封された場合元に戻せないように設計されている（一時期は商品に「Glico 安全包装」のロゴが入ったフィルム包装をかけていたこともあった）。<br /><br />同時期にパラコート連続毒殺事件が発生したこともあり、食品業界全体が包装を不可逆なものにしていく流れとなった。<br /><br /><strong>類似事件</strong><br /><br />本事件同様、市販の飲食物に毒物を混入した事件としては1977年の青酸コーラ無差別殺人事件がある。<br />この事件では東京で2名が死亡、大阪で1名が病院搬送となった。<br />その後、混入対象をコーラから、本件同様のチョコレートに変更した事件が発生したが、いずれも殺人については未遂に終わった。<br />そのうちの1件（2月14日の事件）では、社会的なメッセージを残すという本件にもつながる行為が見られた。<br /><br />また1982年、アメリカで、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のタイレノールにシアン化カリウムが混入され、7名が死亡する事件(en:1982 Chicago Tylenol murders)が発生している。<br /><br />事件が発生した1984年には、かい人21面相に便乗して模倣犯が食品企業を脅した企業恐喝事件が31件発生したが、全て摘発された（1984年の事件で唯一摘発されなかったのが、本家本元のグリコ・森永事件である）。<br />その後、事件を模倣した犯罪は444件に上り、うち206件が検挙された。<br />この中には小中学生がファミコンほしさにネスレ日本を恐喝する、という事件もあった。<br /><br />1985年には、ニコチン入りの製品をばらまくと脅されたロッテが警察に届けずに、3000万円を支払う裏取引に応じた。<br />翌1986年（昭和61年）に再び5000万円の支払いを要求されたために、今度は警察に通報して当時55歳の22号と名乗っていた男は7月3日に逮捕された。<br />この事件でいったんは脅迫犯に屈して裏取引に応じたロッテは批判にさらされ、客の安全が第一だったと弁明した。<br /><br />これらの便乗犯を、筑波大学教授の小田晋は「コバンザメ犯罪」と名付けた。<br />本物の犯人グループも脅迫状で偽者との取り引きに応じないように企業に呼びかけた。<br />なお、犯人グループは江崎勝久の声を録音したテープを同封することで自らが本物である証としていた。<br /><br />台湾では千面人として報道され、グリコ・森永事件のかい人21面相は有名だったという。<br />1984年12月27日に台中市に住む34歳の男がグリコ・森永事件を真似て、インスタントラーメンに毒を入れ食品会社に日本円にして1億5千万円を要求したとして、41時間後に逮捕されるという事件があった。<br />さらに2005年5月、台湾・台中市のコンビニエンスストアの店頭で、シアン化物の混入された瓶入り栄養ドリンク「蛮牛」が置かれ、それを購入・飲用した4人が相次いでシアン化物中毒症状を引き起こし、うち男性1名が5月18日深夜に死亡、2名が重体となった。<br />この栄養ドリンクにはパソコンのプリンターで「有毒、勿喝」（毒入り。飲むな）と印刷されたシールが添付され、グリコ・森永事件を真似た悪質ないたずらとして現地マスコミが大々的に報道した。<br />台湾の衛生当局は保力達ブランドの商品を安全が確認されるまで発売しないように通達した。<br />5月27日に犯人の男が逮捕され、恐喝を目的としグリコ・森永事件を真似たものであると供述した（zh:毒蠻牛事件）。<br /><br />この「グリコ森永事件」の発生から30年に当たる2014年、「怪人28号」なる人物名を名乗る男（年齢・氏名不詳）から、江崎宛に「あれから30年、お金も尽いてきた」などと書かれた脅迫状が送りつけられ、5000万円を要求する事件があった。<br />男は恐喝未遂で2014年11月30日に逮捕された が、グリコ森永事件との直接の関連については低いとされている。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt=""><br />

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            <category>1980年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>宇治学習塾小6女児殺害事件</title>
      <pubDate>Sun, 01 Nov 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>宇治学習塾小6女児殺害事件　2005年12月10日土曜日宇治学習塾小6女児殺害事件（うじ がくしゅうじゅく しょうろくじょじさつがいじけん）は、京都府宇治市の学習塾で2005年12月10日に発生した殺人事件である。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[

宇治学習塾小6女児殺害事件　2005年12月10日土曜日
宇治学習塾小6女児殺害事件（うじ がくしゅうじゅく しょうろくじょじさつがいじけん）は、京都府宇治市の学習塾で2005年12月10日に発生した殺人事件である。<a></a>事件概要

被害者である小学6年生の女児の母親が、講師との関係が上手くいっていないと塾に繰り返し相談した結果、犯人のアルバイト講師が担当する国語の授業を受講させないことになったため、講師は女児に対して恨みの感情を抱くようになった。
しかし、女児と講師との関係が上手くいっていないことに関しては塾側にも問題があったという向きもある。

犯行当日、講師は模擬試験の監督を外されていたが包丁とハンマーを用意して出勤した。
模擬試験を受けに来た児童に「別室で国語のアンケートを取りたい」と言って退室を命じ、国語の授業を受けていない被害女児と2人になったところを包丁で刺殺した。
犯行後、警察に電話で自供し、駆け付けた宇治警察署の警察官によって現行犯逮捕された。

犯人

犯人の講師（事件後に懲戒解雇）は京都市内の同志社大学に在籍していたが、学内で窃盗行為を繰り返し他の学生の財布を盗んでいる現場へ駆け付けた警備員にけがを負わせたとして窃盗罪と傷害罪で有罪判決を受けた前科があり、停学処分中（のちに退学処分）であった。
学習塾側ではこうした前科は把握していなかった。

講師は幼少期に厳格な環境で育ち、菓子やテレビゲームを与えられず、男女交際を禁止されていたと報じられている。
その結果、学業こそ優秀であったが、思春期以降に厳格な環境で育った反動により親に対して家庭内暴力を振るうなど横暴な性格を見せ、コミュニケーション能力に乏しい傾向があったとみられる。
精神科医は「（被告は）アスペルガー症候群で、犯行当時は反応性幻覚妄想障害に陥り、剣を持った被害者の像などの幻視があった」と証言。
「生徒としての被害者に腹を立てただけでなく、幻覚に影響されたからこそ犯行に至った」と述べた。

公判中の際にも突然、大声で「僕は現に人を殺してしまってんだ！だから僕を殺してくれ！助けてくれ！」などとわめき出すなど、奇妙な言動が目立っていた。
2007年3月6日に京都地方裁判所にて懲役18年の判決を受けた（求刑は無期懲役）。
控訴審では弁護側が被告の心神耗弱を主張したため、2008年8月に再鑑定が行われた。
2009年3月24日に大阪高等裁判所にて言い渡された控訴審の判決では、被告の心神耗弱状態を認定し一審判決を破棄、懲役15年が言い渡された。
同年4月8日、大阪高等検察庁・弁護側とも上告せず、判決が確定した。

民事裁判

この事件で殺害された女児の両親が、犯人の講師が勤務していた学習塾・京進を相手取り京都地裁に慰謝料1億3000万円などを求める訴訟を提起していたことが、二審判決確定後の2009年4月30日に判明した。
両親側は「事件を未然に防止しようとしなかった責任は大きい」と主張している。

この訴えに対して京都地裁は使用者責任を認め、2010年3月31日、京進に約9800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。

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<br /><div>宇治学習塾小6女児殺害事件　2005年12月10日土曜日<br></div><br />宇治学習塾小6女児殺害事件（うじ がくしゅうじゅく しょうろくじょじさつがいじけん）は、京都府宇治市の学習塾で2005年12月10日に発生した殺人事件である。<a name="more"></a><span style="font-size:large;"><strong>事件概要</strong></span><br /><br />被害者である小学6年生の女児の母親が、講師との関係が上手くいっていないと塾に繰り返し相談した結果、犯人のアルバイト講師が担当する国語の授業を受講させないことになったため、講師は女児に対して恨みの感情を抱くようになった。<br />しかし、女児と講師との関係が上手くいっていないことに関しては塾側にも問題があったという向きもある。<br /><br />犯行当日、講師は模擬試験の監督を外されていたが包丁とハンマーを用意して出勤した。<br />模擬試験を受けに来た児童に「別室で国語のアンケートを取りたい」と言って退室を命じ、国語の授業を受けていない被害女児と2人になったところを包丁で刺殺した。<br />犯行後、警察に電話で自供し、駆け付けた宇治警察署の警察官によって現行犯逮捕された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">犯人</span></strong><br /><br />犯人の講師（事件後に懲戒解雇）は京都市内の同志社大学に在籍していたが、学内で窃盗行為を繰り返し他の学生の財布を盗んでいる現場へ駆け付けた警備員にけがを負わせたとして窃盗罪と傷害罪で有罪判決を受けた前科があり、停学処分中（のちに退学処分）であった。<br />学習塾側ではこうした前科は把握していなかった。<br /><br />講師は幼少期に厳格な環境で育ち、菓子やテレビゲームを与えられず、男女交際を禁止されていたと報じられている。<br />その結果、学業こそ優秀であったが、思春期以降に厳格な環境で育った反動により親に対して家庭内暴力を振るうなど横暴な性格を見せ、コミュニケーション能力に乏しい傾向があったとみられる。<br />精神科医は「（被告は）アスペルガー症候群で、犯行当時は反応性幻覚妄想障害に陥り、剣を持った被害者の像などの幻視があった」と証言。<br />「生徒としての被害者に腹を立てただけでなく、幻覚に影響されたからこそ犯行に至った」と述べた。<br /><br />公判中の際にも突然、大声で「僕は現に人を殺してしまってんだ！だから僕を殺してくれ！助けてくれ！」などとわめき出すなど、奇妙な言動が目立っていた。<br />2007年3月6日に京都地方裁判所にて懲役18年の判決を受けた（求刑は無期懲役）。<br />控訴審では弁護側が被告の心神耗弱を主張したため、2008年8月に再鑑定が行われた。<br />2009年3月24日に大阪高等裁判所にて言い渡された控訴審の判決では、被告の心神耗弱状態を認定し一審判決を破棄、懲役15年が言い渡された。<br />同年4月8日、大阪高等検察庁・弁護側とも上告せず、判決が確定した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">民事裁判</span></strong><br /><br />この事件で殺害された女児の両親が、犯人の講師が勤務していた学習塾・京進を相手取り京都地裁に慰謝料1億3000万円などを求める訴訟を提起していたことが、二審判決確定後の2009年4月30日に判明した。<br />両親側は「事件を未然に防止しようとしなかった責任は大きい」と主張している。<br /><br />この訴えに対して京都地裁は使用者責任を認め、2010年3月31日、京進に約9800万円の支払いを命じる判決を言い渡した。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt=""><br />

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            <category>2000年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>福岡内妻一家4人殺害事件</title>
      <pubDate>Sat, 17 Oct 2020 20:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1976年06月13日日曜日福岡内妻一家4人殺害事件（ふくおかないさいいっか4にんさつがいじけん）とは福岡県飯塚市で発生した殺人事件である。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1976年06月13日日曜日福岡内妻一家4人殺害事件（ふくおかないさいいっか4にんさつがいじけん）とは福岡県飯塚市で発生した殺人事件である。<a></a>

事件の概要
1976年（昭和51年）6月13日の未明から翌日の早朝にかけて、飯塚市の民家にA（当時34歳）が侵入、民家に住む夫（当時46歳）と妻（当時44歳）が一階の寝室で出刃包丁で刺殺され、二階で就寝していた長女（当時20歳）と夫の母（当時73歳）も刺殺された。
二階で就寝していて難を逃れた妻の妹B（当時40歳）は派出所に駆け込んで助けを求めた。
Bによると一家殺害犯人Aとは1973年に知り合い、当時は内縁関係にあり一時は正式に結婚する話も出ていた。
しかしAが経歴を偽っていたことや、ギャンブルで多額の負債を負っていたことから、Bの姉夫婦に別れるよういわれるようになっていた。
それを逆恨みにしたAがBの姉一家皆殺しを図ったというものであった。
Aはスピード逮捕された。

その後
Aは起訴され一審の福岡地裁飯塚支部は1985年5月31日に死刑を言い渡した。
しかしAは一審途中から4人のうち姉を除く3人は内妻Bによる犯行と主張した。
このAの「一部冤罪説」に対し推理作家の島田荘司が支援しており、Aの事を書いたノンフィクションを出版したことがある。
しかし裁判所はこの「共犯説」を否定、A単独犯と認定し、1997年9月11日に最高裁第1小法廷は上告を棄却、死刑が確定した。
2019年現在、Aは福岡拘置所に収監されているが、現在もAは「殺害したのは一人で、三人を殺害したのはBだ」と主張し再審請求している。　


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      <content:encoded><![CDATA[
<div>1976年06月13日日曜日<br></div>福岡内妻一家4人殺害事件（ふくおかないさいいっか4にんさつがいじけん）とは福岡県飯塚市で発生した殺人事件である。<a name="more"></a><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の概要</span></strong><br />1976年（昭和51年）6月13日の未明から翌日の早朝にかけて、飯塚市の民家にA（当時34歳）が侵入、民家に住む夫（当時46歳）と妻（当時44歳）が一階の寝室で出刃包丁で刺殺され、二階で就寝していた長女（当時20歳）と夫の母（当時73歳）も刺殺された。<br />二階で就寝していて難を逃れた妻の妹B（当時40歳）は派出所に駆け込んで助けを求めた。<br />Bによると一家殺害犯人Aとは1973年に知り合い、当時は内縁関係にあり一時は正式に結婚する話も出ていた。<br />しかしAが経歴を偽っていたことや、ギャンブルで多額の負債を負っていたことから、Bの姉夫婦に別れるよういわれるようになっていた。<br />それを逆恨みにしたAがBの姉一家皆殺しを図ったというものであった。<br />Aはスピード逮捕された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">その後</span></strong><br />Aは起訴され一審の福岡地裁飯塚支部は1985年5月31日に死刑を言い渡した。<br />しかしAは一審途中から4人のうち姉を除く3人は内妻Bによる犯行と主張した。<br />このAの「一部冤罪説」に対し推理作家の島田荘司が支援しており、Aの事を書いたノンフィクションを出版したことがある。<br />しかし裁判所はこの「共犯説」を否定、A単独犯と認定し、1997年9月11日に最高裁第1小法廷は上告を棄却、死刑が確定した。<br />2019年現在、Aは福岡拘置所に収監されているが、現在もAは「殺害したのは一人で、三人を殺害したのはBだ」と主張し再審請求している。　<br />

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            <category>1970年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>銀座弁護士妻子殺人事件</title>
      <pubDate>Sat, 17 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1956年01月18日水曜日銀座弁護士妻子殺人事件（ぎんざべんごしさいしさつじんじけん）とは、1956年1月に日本の東京都中央区銀座で発生した強盗殺人事件。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1956年01月18日水曜日
銀座弁護士妻子殺人事件（ぎんざべんごしさいしさつじんじけん）とは、1956年1月に日本の東京都中央区銀座で発生した強盗殺人事件。<a></a>

事件の概要

1956年1月18日午後1時頃、東京・銀座の第二東京弁護士会副会長磯部常治（当時61歳。帝銀事件で平沢貞通の弁護人を担当）の自宅で妻（当時52歳）の絞殺体と大学4年生の次女（当時22歳）の刺殺体を帰宅した三女が発見し警察に急報した。

築地署員が駆けつけ捜査を開始したところ、同家は1階から3階にかけて物色された痕で荒らされており妻はネクタイで絞殺されており、階下にいた次女は鋭利な刃物で胸や肩など8か所にわたり刺されており、現金、六法全書、衣類などが盗み出されていることから怨恨ではなく金目当ての強盗とみて付近の聞き込み捜査を始めた。

その2日後の1月20日に窃盗などで前科2犯の男B（当時27歳）が逃亡先の名古屋で警察に自首し現行犯逮捕された。

事件の動機

Bは中華飯店で知り合った女性と結婚しようと考えた。
だが、自分の給料では結婚など出来ず、以前出前に行った副会長宅への強盗を計画した。
犯行当日、表玄関から侵入したところ副会長に発見されたが、何とかごまかし、副会長は、葬儀に出かけるところだったので、改めて来るようにとBに伝えて外出した。

その後、Bは副会長宅に戻り2階にいた妻をネクタイで絞殺し、金品を盗みだして玄関から出ようとしたところにちょうど帰宅した次女と鉢合わせ。
このためBは台所にあった包丁で次女を刺し殺した。

Bは犯行後の良心の呵責に耐えかね警察に自首した。

事件の影響

この事件で妻子を失った磯部は、「自分自身が犯罪被害者となったが、私は死刑廃止を支持する。囚人にも親や兄弟がいる。」と発言し、死刑廃止を堅持した。
これは山一証券代理人弁護士夫人殺人事件で妻を失い死刑存置派になった弁護士岡村勲と対照的である。

判決

1956年11月20日、東京地裁はBに死刑を言い渡した。
Bは控訴せず、同年12月5日に死刑が確定し、1960年に死刑が執行された。

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      <content:encoded><![CDATA[
<div>1956年01月18日水曜日<br></div><br />銀座弁護士妻子殺人事件（ぎんざべんごしさいしさつじんじけん）とは、1956年1月に日本の東京都中央区銀座で発生した強盗殺人事件。<a name="more"></a><br /><br /><span style="font-size:large;"><strong>事件の概要</strong></span><br /><br />1956年1月18日午後1時頃、東京・銀座の第二東京弁護士会副会長磯部常治（当時61歳。帝銀事件で平沢貞通の弁護人を担当）の自宅で妻（当時52歳）の絞殺体と大学4年生の次女（当時22歳）の刺殺体を帰宅した三女が発見し警察に急報した。<br /><br />築地署員が駆けつけ捜査を開始したところ、同家は1階から3階にかけて物色された痕で荒らされており妻はネクタイで絞殺されており、階下にいた次女は鋭利な刃物で胸や肩など8か所にわたり刺されており、現金、六法全書、衣類などが盗み出されていることから怨恨ではなく金目当ての強盗とみて付近の聞き込み捜査を始めた。<br /><br />その2日後の1月20日に窃盗などで前科2犯の男B（当時27歳）が逃亡先の名古屋で警察に自首し現行犯逮捕された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の動機</span></strong><br /><br />Bは中華飯店で知り合った女性と結婚しようと考えた。<br />だが、自分の給料では結婚など出来ず、以前出前に行った副会長宅への強盗を計画した。<br />犯行当日、表玄関から侵入したところ副会長に発見されたが、何とかごまかし、副会長は、葬儀に出かけるところだったので、改めて来るようにとBに伝えて外出した。<br /><br />その後、Bは副会長宅に戻り2階にいた妻をネクタイで絞殺し、金品を盗みだして玄関から出ようとしたところにちょうど帰宅した次女と鉢合わせ。<br />このためBは台所にあった包丁で次女を刺し殺した。<br /><br />Bは犯行後の良心の呵責に耐えかね警察に自首した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の影響</span></strong><br /><br />この事件で妻子を失った磯部は、「自分自身が犯罪被害者となったが、私は死刑廃止を支持する。囚人にも親や兄弟がいる。」と発言し、死刑廃止を堅持した。<br />これは山一証券代理人弁護士夫人殺人事件で妻を失い死刑存置派になった弁護士岡村勲と対照的である。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">判決</span></strong><br /><br />1956年11月20日、東京地裁はBに死刑を言い渡した。<br />Bは控訴せず、同年12月5日に死刑が確定し、1960年に死刑が執行された。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>1950年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>少女スーツケース詰め殺人事件</title>
      <pubDate>Fri, 16 Oct 2020 13:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2005年05月02日月曜日少女スーツケース詰め殺人事件（しょうじょスーツケースづめさつじんじけん）とは、2005年5月2日に千葉県で発生した殺人事件である。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2005年05月02日月曜日
少女スーツケース詰め殺人事件（しょうじょスーツケースづめさつじんじけん）とは、2005年5月2日に千葉県で発生した殺人事件である。<a></a>
概要

2005年5月2日、宮城県加美町一本杉の日焼けサロン店員の女性（19歳）が千葉県松戸市のフリーターの男（23歳）に絞殺された。
男はJR新宿駅東口で女性と知り合い、自宅に連れ込んだ後、刃物で女性を脅迫して金品を奪おうとしたが、女性に抵抗されたために殺害に至った。
警察は5月7日に男を死体遺棄罪の容疑で逮捕。
男の自供から、柏市名戸ヶ谷の水田に遺棄されたスーツケースの内部から女性の遺体が発見された。
男は強盗殺人罪の容疑でも再逮捕された。

加害者と被害者

犯人の男は、自称フリーターでパチンコなどから借金を重ねていた。
事件の2年前にも埼玉県の女性をホテルに連れ込んでキャッシュカードを奪って現金7万円を引き出すという、今回と同じような事件を起こしていた。
このときは女性との間に示談が成立して起訴猶予となる。
そして今回、被害者の女性を自宅に誘い込み、キャッシュカードを奪って暗証番号を聞き出そうとしたが、女性に抵抗されたために殺害し、現金1万2000円の入った財布を奪った。

この後、男は被害者女性の携帯電話を使って実家にいた母親に連絡する。
「女性に現金を盗まれた。弁償すれば告訴を取り下げる」と自らが被害者であり、女性が加害者であるかのようなふりをしてキャッシュカードの暗証番号を聞き出そうとしたのである。
さらに警察官を装って示談金名目で被害者女性の知人から金を騙し取ったりもした。
このような行為が、かえって警察に犯人特定を進めさせる決定的要因となった。

被害者の女性は青森県八戸市出身で、3人姉妹の末娘だった。
事件前の3月に父が死去したため、宮城県で働くために実家を出た。
家族思いの少女で、母の日にカーネーションやチーズケーキを贈り、父が亡くなって寂しい思いをしていた母を気遣ってか、姉たちと1万円を出し合って5月8日の母の日に東京への旅行券をプレゼントする予定だったという。
東京に来ていたのは、ゴールデンウィークを利用して下見を兼ねていたという。

裁判

裁判で被告は起訴内容を全面的に認めた。
裁判では無期懲役が求刑され、2005年11月10日、東京地裁で小川正持裁判長は、「パチスロで金に窮し、声をかけて親しくなった女性から金をせびろうと考えた。思い通りにならず殺害して金品を奪ったという動機はあまりに身勝手で愚かしい」とし、求刑通り無期懲役の判決を下した。
さらに「被害者は親元を離れて自立した生活を始めたばかりだった。突如として将来のすべてを奪われた無念さは多大だろう」と被害者の心情にも触れている。


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<div>2005年05月02日月曜日<br></div><br />少女スーツケース詰め殺人事件（しょうじょスーツケースづめさつじんじけん）とは、2005年5月2日に千葉県で発生した殺人事件である。<a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br /><br />2005年5月2日、宮城県加美町一本杉の日焼けサロン店員の女性（19歳）が千葉県松戸市のフリーターの男（23歳）に絞殺された。<br />男はJR新宿駅東口で女性と知り合い、自宅に連れ込んだ後、刃物で女性を脅迫して金品を奪おうとしたが、女性に抵抗されたために殺害に至った。<br />警察は5月7日に男を死体遺棄罪の容疑で逮捕。<br />男の自供から、柏市名戸ヶ谷の水田に遺棄されたスーツケースの内部から女性の遺体が発見された。<br />男は強盗殺人罪の容疑でも再逮捕された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">加害者と被害者</span></strong><br /><br />犯人の男は、自称フリーターでパチンコなどから借金を重ねていた。<br />事件の2年前にも埼玉県の女性をホテルに連れ込んでキャッシュカードを奪って現金7万円を引き出すという、今回と同じような事件を起こしていた。<br />このときは女性との間に示談が成立して起訴猶予となる。<br />そして今回、被害者の女性を自宅に誘い込み、キャッシュカードを奪って暗証番号を聞き出そうとしたが、女性に抵抗されたために殺害し、現金1万2000円の入った財布を奪った。<br /><br />この後、男は被害者女性の携帯電話を使って実家にいた母親に連絡する。<br />「女性に現金を盗まれた。弁償すれば告訴を取り下げる」と自らが被害者であり、女性が加害者であるかのようなふりをしてキャッシュカードの暗証番号を聞き出そうとしたのである。<br />さらに警察官を装って示談金名目で被害者女性の知人から金を騙し取ったりもした。<br />このような行為が、かえって警察に犯人特定を進めさせる決定的要因となった。<br /><br />被害者の女性は青森県八戸市出身で、3人姉妹の末娘だった。<br />事件前の3月に父が死去したため、宮城県で働くために実家を出た。<br />家族思いの少女で、母の日にカーネーションやチーズケーキを贈り、父が亡くなって寂しい思いをしていた母を気遣ってか、姉たちと1万円を出し合って5月8日の母の日に東京への旅行券をプレゼントする予定だったという。<br />東京に来ていたのは、ゴールデンウィークを利用して下見を兼ねていたという。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">裁判</span></strong><br /><br />裁判で被告は起訴内容を全面的に認めた。<br />裁判では無期懲役が求刑され、2005年11月10日、東京地裁で小川正持裁判長は、「パチスロで金に窮し、声をかけて親しくなった女性から金をせびろうと考えた。思い通りにならず殺害して金品を奪ったという動機はあまりに身勝手で愚かしい」とし、求刑通り無期懲役の判決を下した。<br />さらに「被害者は親元を離れて自立した生活を始めたばかりだった。突如として将来のすべてを奪われた無念さは多大だろう」と被害者の心情にも触れている。<br /><br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>2000年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>越谷トラック運転手殺害事件</title>
      <pubDate>Thu, 15 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2013年10月16日水曜日越谷トラック運転手殺害事件（こしがやトラックうんてんしゅさつがいじけん）は、2013年10月に埼玉県越谷市で男性が殺害された事件。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2013年10月16日水曜日越谷トラック運転手殺害事件（こしがやトラックうんてんしゅさつがいじけん）は、2013年10月に埼玉県越谷市で男性が殺害された事件。<a></a>

概要
2013年10月16日、埼玉県越谷市川柳町4丁目の民家で、住人のトラック運転手Aが刺殺される事件が発生。
また、犯人はAを殺害後、別の部屋にいたAの長女Bに上半身を殴る、手足を縛るなどの暴行を加えて軽傷を負わせて逃走した。

事件当時の状況
長女Bは事件当時は自室で寝ており、2階に上がってきた犯人と鉢合わせして、殴られた。
長女Bは暴行を受けた後に2階の別の部屋で寝ていたAの妻に、経緯を話した。
話を聞いたAの妻が1階のリビングに降りてみると、電気はついたまま、Aが血だらけになって壁に寄りかかるように倒れていた。

トラック運転手Aの状況
Aの傷は数十か所に上り、致命傷は深さ10センチに及ぶ右胸の刺し傷とみられ、死因は出血性ショック死。

侵入手口
Aが倒れていた1階リビングと廊下を挟んだ場所にある和室の窓は壊され、50センチ四方の穴が開いており、鍵は開いた状態となっていた。
普段はAが施錠しており、事件前に窓は破損していなかった。
和室内には、数個の土足痕があった。
そのため、犯人は窓を割って侵入したとみられる。
事件後の窓は閉じられた状態のまま、ガラスの破片が周辺に飛び散っている状態となっていた。
その後の捜査で、割れていた窓から高熱が当てられた痕跡が見つかったことから、「焼き破り」という手口で窓を開けようとした可能性がある。

長女Bの証言
犯人との面識
事件後に長女Bは、警察に犯人とは面識がないと話している。
長女Bは、犯人の男と面識はなかった。

犯人の行動
長女Bによると、犯人の男は足元付近に掛かったはしごを上ってベッド上段にきたため、男に気づいた長女Bが叫ぶと、「静かにしろ」と言って横に近づいて、起き上がっていたところを右手で左頬を1回殴られた。
長女Bの部屋が物色された形跡は見つかっていない。
長女Bは、犯人があらかじめ用意したと思われる粘着テープで手足を縛られて、「静かにしろ」、「おまえに用はない」、「何歳?」などと言われたという。

Aの事件前後の状況
Aは、いつも会社に出勤するために午前4時～5時ごろに自宅を出ており、Aの寝ている布団がリビング内に敷かれていないことや照明がついていたことから、出発前に侵入してきた犯人と就寝していたリビングで鉢合わせとなった可能性が高い。
血痕が飛び散っており、Aの腕などに防御創があることから、Aは男ともみ合って刃物で殺害されたとみられる。
普段のAは2階で寝ているが、部屋を片付けのために、数日前から1階の居間で就寝していた。

当日の天候と目撃情報
事件当日の16日未明は台風26号により、大荒れの天気となっていた。
近所に住む男性は、事件直前の午前2時半ごろ、紺色のカッパを着た不審な人物がうろついているのを目撃している。

3年ほど前からの状況
関連があるかは不明だが、周辺では3年ほど前から、空き巣や自転車盗難の被害が起こっている。

捜査経過
Aのバッグから財布がなくなっており、容疑者の男は金品目的の窃盗犯で、殺害後に財布を持ち去った疑いがある。
ただ、タンスなどに荒らされた形跡はなく、金銭目的なのかは不明。
また、Aを殺害後にわざわざ2階に上がり、長女Bを縛ったにも関わらず、財布以外は盗らずに玄関から逃走していたとみられることから、動機が不明で捜査は難航している。
台風の深夜の犯行だったこともあって、目撃情報も集まっていない。

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<div>2013年10月16日水曜日<br></div>越谷トラック運転手殺害事件（こしがやトラックうんてんしゅさつがいじけん）は、2013年10月に埼玉県越谷市で男性が殺害された事件。<a name="more"></a><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br />2013年10月16日、埼玉県越谷市川柳町4丁目の民家で、住人のトラック運転手Aが刺殺される事件が発生。<br />また、犯人はAを殺害後、別の部屋にいたAの長女Bに上半身を殴る、手足を縛るなどの暴行を加えて軽傷を負わせて逃走した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">事件当時の状況</span></strong><br />長女Bは事件当時は自室で寝ており、2階に上がってきた犯人と鉢合わせして、殴られた。<br />長女Bは暴行を受けた後に2階の別の部屋で寝ていたAの妻に、経緯を話した。<br />話を聞いたAの妻が1階のリビングに降りてみると、電気はついたまま、Aが血だらけになって壁に寄りかかるように倒れていた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">トラック運転手Aの状況</span></strong><br />Aの傷は数十か所に上り、致命傷は深さ10センチに及ぶ右胸の刺し傷とみられ、死因は出血性ショック死。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">侵入手口</span></strong><br />Aが倒れていた1階リビングと廊下を挟んだ場所にある和室の窓は壊され、50センチ四方の穴が開いており、鍵は開いた状態となっていた。<br />普段はAが施錠しており、事件前に窓は破損していなかった。<br />和室内には、数個の土足痕があった。<br />そのため、犯人は窓を割って侵入したとみられる。<br />事件後の窓は閉じられた状態のまま、ガラスの破片が周辺に飛び散っている状態となっていた。<br />その後の捜査で、割れていた窓から高熱が当てられた痕跡が見つかったことから、「焼き破り」という手口で窓を開けようとした可能性がある。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">長女Bの証言</span></strong><br /><strong>犯人との面識</strong><br />事件後に長女Bは、警察に犯人とは面識がないと話している。<br />長女Bは、犯人の男と面識はなかった。<br /><br /><strong>犯人の行動</strong><br />長女Bによると、犯人の男は足元付近に掛かったはしごを上ってベッド上段にきたため、男に気づいた長女Bが叫ぶと、「静かにしろ」と言って横に近づいて、起き上がっていたところを右手で左頬を1回殴られた。<br />長女Bの部屋が物色された形跡は見つかっていない。<br />長女Bは、犯人があらかじめ用意したと思われる粘着テープで手足を縛られて、「静かにしろ」、「おまえに用はない」、「何歳?」などと言われたという。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">Aの事件前後の状況</span></strong><br />Aは、いつも会社に出勤するために午前4時～5時ごろに自宅を出ており、Aの寝ている布団がリビング内に敷かれていないことや照明がついていたことから、出発前に侵入してきた犯人と就寝していたリビングで鉢合わせとなった可能性が高い。<br />血痕が飛び散っており、Aの腕などに防御創があることから、Aは男ともみ合って刃物で殺害されたとみられる。<br />普段のAは2階で寝ているが、部屋を片付けのために、数日前から1階の居間で就寝していた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">当日の天候と目撃情報</span></strong><br />事件当日の16日未明は台風26号により、大荒れの天気となっていた。<br />近所に住む男性は、事件直前の午前2時半ごろ、紺色のカッパを着た不審な人物がうろついているのを目撃している。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">3年ほど前からの状況</span></strong><br />関連があるかは不明だが、周辺では3年ほど前から、空き巣や自転車盗難の被害が起こっている。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">捜査経過</span></strong><br />Aのバッグから財布がなくなっており、容疑者の男は金品目的の窃盗犯で、殺害後に財布を持ち去った疑いがある。<br />ただ、タンスなどに荒らされた形跡はなく、金銭目的なのかは不明。<br />また、Aを殺害後にわざわざ2階に上がり、長女Bを縛ったにも関わらず、財布以外は盗らずに玄関から逃走していたとみられることから、動機が不明で捜査は難航している。<br />台風の深夜の犯行だったこともあって、目撃情報も集まっていない。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>2010年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>氷見事件</title>
      <pubDate>Wed, 14 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2002年04月15日月曜日氷見事件（ひみじけん）とは、2002年3月13日に富山県で発生した婦女暴行未遂容疑を始め2件の容疑で、2度にわたって逮捕された男性が懲役3年の刑に服した後に、本2件を含めた一連の暴行事件の真犯人が見つかった冤罪事件。富山事件などとも呼ばれる。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2002年04月15日月曜日氷見事件（ひみじけん）とは、2002年3月13日に富山県で発生した婦女暴行未遂容疑を始め2件の容疑で、2度にわたって逮捕された男性が懲役3年の刑に服した後に、本2件を含めた一連の暴行事件の真犯人が見つかった冤罪事件。
富山事件などとも呼ばれる。<a></a>
事件の経過
2002年4月15日、同年3月13日に当時16歳の少女を強姦しようとしたと、タクシー運転手が強姦未遂容疑で富山県警察氷見警察署に逮捕、5月には別の少女への強姦容疑により再逮捕された。
逮捕のきっかけは容疑者が少女らの証言する犯人と似ていたこととされる。
任意で行われた取調べにも関わらず、4月8日以降断続的に3日間、朝から晩まで長時間にわたって行われ、ついに4月15日の3回目の取り調べで、既に何が何だか分からなくなり疲れ切っていた被疑者に対し、「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという、取調官の噓による誤導により、絶望させ容疑を認め、自白したとして逮捕された。
逮捕状は既に準備されていた。
逮捕を受け、自白の裏付け捜査を行い、捜査員が氷見警察署に提出した事件報告書には逮捕前の段階で、被害者の目撃証言の星のマークの運動靴が被疑者の自動車の後部座席付近に有ったと記されている。
被疑者は、取調官に「はい」か「うん」しか言うなと言われ、おかしいとか怖くて何も言えなかったという。
自宅の捜索では星のマークの運動靴は発見されず、取調官が「捨てたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、警察は彼が捨てたと供述した場所を捜索したが、やはり運動靴は発見されなかった。
取調官が「燃やしたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、運動靴は自宅で燃やしたことにされた。
被害者目撃証言ではサバイバルナイフを突きつけられ、チェーンで手を縛られたとされたが、取調官は被害者の記憶違いとして被疑者の自宅の捜索で出た果物ナイフとビニールひもを証拠とした。
被害者自宅の見取り図も取調官が被疑者の後ろから手をとり書かせた。
現場に残っていた体液についても、被疑者の血液型と一致しない可能性を認めながら、科学捜査研究所の担当者は氷見警察署署長から依頼がなかったので再鑑定しなかった。
この逮捕には、自白に「秘密の暴露が全くない」こと、犯行当時の明白なアリバイ（犯行時刻とされた時間帯に自宅から知人に電話をかけたというNTTの通話記録など）が存在したこと、現場証拠である足跡が28センチという巨大な足跡なのに対し、容疑者の足が小さい24.5センチであることなどから、立件は無理ではないかとの声が氷見警察署内にさえもあった。
それにも関わらず捜査は強行され、富山地方検察庁が立件した
（真犯人判明後の国家賠償訴訟における2014年2月17日の富山地裁での第24回口頭弁論の取調官の証人尋問で、被害者の自宅の見取り図については容疑者に確認しながら取調官が見本を書き清書させたと取調官は証言した。
凶器、被害者の縛り方など容疑者が知り得ない事柄には取調官が選択肢を示し供述を得ていたことも認めた。
同年4月21日の富山地裁での第25回口頭弁論で事件当時の検察官は、通話記録について見たが精査しなかったと弁明した。
足跡のサイズの差についても、バスケットシューズは大きめを履くこともあり矛盾するとは思わなかったと弁明した）。

裁判では弁護士も「裁判官から何を言われても認める方向で」「控訴しても無駄」と犯人扱いされ、なおかつ、実兄姉より集めた約250万円を被害者二人に被疑者本人の承諾を受けないまま勝手に「和解金」として支払うなど、「弁護」とは程遠い勝手な行動を行ったため、被疑者本人は孤立無援な状態であった。
富山地裁における裁判の席でも、柳原は容疑を認め、結局自白と少女らの証言が重要視され有罪判決が下り同年11月に懲役3年が確定。
柳原は刑に服し2005年1月に出所した。
被疑者逮捕後も、強姦事件が起き、被害者の証言で共通していたのは、強姦後「100を数えるまで動くな」と逃げる時間稼ぎがされていたことであった。
似たような事件が発生しながらも、富山県警は捜査を行わなかった。
真犯人の男は後の服役中に、富山県警は被疑者が犯人ではないと分かっていたが、それを隠蔽した、と報道機関への手紙で記している。

真犯人判明後
出所した後の2006年11月、別の婦女暴行事件で鳥取県警察に逮捕された男が自分が真犯人である旨を自供（真犯人は被疑者が起訴・有罪とされた2件を含めた14件の婦女暴行事件で起訴され、懲役25年の判決が下された）。

2007年1月17日に被疑者の親族へ経緯を説明し富山県警察が謝罪、1月19日に記者会見で事実が判明した。
これを受けて被疑者は、無罪判決を求める再審請求を富山地裁に行った。
また、1月29日に富山地検の検事正が彼に直接謝罪した。
富山県警が冤罪事件について謝罪したとされる1月23日夜の翌日、24日昼に、彼は富山地検に呼び出され、「当時の取り調べ捜査官、担当検事を恨んでいません」などという内容の調書を意思に反して作成させられた上、彼が知らないはずの事件の詳細についての自白書類が富山県警により捏造され、署名・指印させられたことが判明している。

再審の論告公判は8月22日に行われ、弁護側は無罪を求刑し、2007年10月10日に無罪判決が言い渡された。
また検察側が控訴しなかったため判決はそのまま確定した。

無罪となった彼は真犯人発覚後にマスコミのインタビューに答え、尋問した刑事から「身内が間違いないと認めている」と告げられ弁明しても聞いてもらえず、罪を認めざるを得ない状況に陥ったと答えている。
また、同意すること以外は意見を述べることを刑事から禁じられた上で、刑事の言うことが事実だという念書を書かされ署名させられていたとも告白している。
再審では尋問した取調官の証人尋問が却下されている。
藤田敏裁判長が「ただ単に無罪判決を出す手続きにすぎない」と理由を述べたためで、この発言に対し、「本気で真相を究明し、反省する気があるのか」という疑問や非難が出た。
さらに判決公判でも謝罪は裁判所側からは一切行われておらず、判決中述べた裁判官のあまりにも他人事な発言に彼は「むかついた」と裁判長に対し怒りを露わにした。
無罪判決が確定したものの、取調べをした警察官などの証人尋問および処分が実施されていないなど冤罪事件が発生した真実が解明されていないとして、彼は2009年5月14日に国家賠償訴訟を提訴した。2015年4月に富山地裁は、富山県警察の捜査の違法性を認め、県に1966万円の支払いを命じる判決を言い渡し確定した。

その後
他の冤罪事件の被害者たちも同様の経験を証言をしていることから、このような方法は冤罪を生み出す手法として時代や場所を選ばずに行われている方法であるとも指摘される。
2007年6月6日には、日本弁護士連合会主催で「えん罪を生み出す取調べの実態」というシンポジウムが緊急に開かれている。
日弁連側は取調べを録画・録音（「可視化」）する事でこのような事態を防ぐべしと主張している。
当時の富山県警安村隆司本部長は「結果においては誤認逮捕になりましたけれども、当時の捜査幹部の指揮あるいは捜査員の捜査手法、それを一つ一つをあげつらって捜査の懈怠があった、あるいは、そこに捜査のミスがあったという事で処分に該当するものだというふうに判断できるのか、どうかと言う事になると、当時の捜査状況をつぶさに検証した立場からして（処分を）ちゅうちょせざるを得ない。」として富山県警は誰一人処分されなかった。

さらに、長勢甚遠法務大臣（当時）が再審前の2007年1月26日に彼に対し謝罪した際、自白の強要については違法性が無いと述べ、当時の捜査員に対して処分は行わないことを決定している。
彼は出所後、地元富山県で再就職活動をしたが25社で不採用になり、2009年に国家賠償訴訟を提訴したことにより、兄、姉からこれ以上、家の姓を汚すなと兄、姉とは断絶状態となった。
彼は、取調べで受けた威嚇のPTSDで就職をドクターストップされ、2年余り服役した補償として国から約1000万円を受け取ったが、生活費や弁護士費用で底を尽き、都内杉並区在住で生活保護を受けている。
警察・検察の捜査機関が「カメラがあると容疑者が話しにくくなり真実が見えなくなる」と全面可視化に抵抗している事に対して、2014年4月22日に法務省法制審議会要請共同行動として、彼は他の冤罪被害者と全面可視化を要請した。

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      <content:encoded><![CDATA[
<div>2002年04月15日月曜日<br></div>氷見事件（ひみじけん）とは、2002年3月13日に富山県で発生した婦女暴行未遂容疑を始め2件の容疑で、2度にわたって逮捕された男性が懲役3年の刑に服した後に、本2件を含めた一連の暴行事件の真犯人が見つかった冤罪事件。<br />富山事件などとも呼ばれる。<a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">事件の経過</span></strong><br />2002年4月15日、同年3月13日に当時16歳の少女を強姦しようとしたと、タクシー運転手が強姦未遂容疑で富山県警察氷見警察署に逮捕、5月には別の少女への強姦容疑により再逮捕された。<br />逮捕のきっかけは容疑者が少女らの証言する犯人と似ていたこととされる。<br />任意で行われた取調べにも関わらず、4月8日以降断続的に3日間、朝から晩まで長時間にわたって行われ、ついに4月15日の3回目の取り調べで、既に何が何だか分からなくなり疲れ切っていた被疑者に対し、「お前の家族も『お前がやったに違いない。どうにでもしてくれ』と言ってるぞ」などという、取調官の噓による誤導により、絶望させ容疑を認め、自白したとして逮捕された。<br />逮捕状は既に準備されていた。<br />逮捕を受け、自白の裏付け捜査を行い、捜査員が氷見警察署に提出した事件報告書には逮捕前の段階で、被害者の目撃証言の星のマークの運動靴が被疑者の自動車の後部座席付近に有ったと記されている。<br />被疑者は、取調官に「はい」か「うん」しか言うなと言われ、おかしいとか怖くて何も言えなかったという。<br />自宅の捜索では星のマークの運動靴は発見されず、取調官が「捨てたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、警察は彼が捨てたと供述した場所を捜索したが、やはり運動靴は発見されなかった。<br />取調官が「燃やしたんだろ」と言うので被疑者は「はい」と答え、運動靴は自宅で燃やしたことにされた。<br />被害者目撃証言ではサバイバルナイフを突きつけられ、チェーンで手を縛られたとされたが、取調官は被害者の記憶違いとして被疑者の自宅の捜索で出た果物ナイフとビニールひもを証拠とした。<br />被害者自宅の見取り図も取調官が被疑者の後ろから手をとり書かせた。<br />現場に残っていた体液についても、被疑者の血液型と一致しない可能性を認めながら、科学捜査研究所の担当者は氷見警察署署長から依頼がなかったので再鑑定しなかった。<br />この逮捕には、自白に「秘密の暴露が全くない」こと、犯行当時の明白なアリバイ（犯行時刻とされた時間帯に自宅から知人に電話をかけたというNTTの通話記録など）が存在したこと、現場証拠である足跡が28センチという巨大な足跡なのに対し、容疑者の足が小さい24.5センチであることなどから、立件は無理ではないかとの声が氷見警察署内にさえもあった。<br />それにも関わらず捜査は強行され、富山地方検察庁が立件した<br />（真犯人判明後の国家賠償訴訟における2014年2月17日の富山地裁での第24回口頭弁論の取調官の証人尋問で、被害者の自宅の見取り図については容疑者に確認しながら取調官が見本を書き清書させたと取調官は証言した。<br />凶器、被害者の縛り方など容疑者が知り得ない事柄には取調官が選択肢を示し供述を得ていたことも認めた。<br />同年4月21日の富山地裁での第25回口頭弁論で事件当時の検察官は、通話記録について見たが精査しなかったと弁明した。<br />足跡のサイズの差についても、バスケットシューズは大きめを履くこともあり矛盾するとは思わなかったと弁明した）。<br /><br />裁判では弁護士も「裁判官から何を言われても認める方向で」「控訴しても無駄」と犯人扱いされ、なおかつ、実兄姉より集めた約250万円を被害者二人に被疑者本人の承諾を受けないまま勝手に「和解金」として支払うなど、「弁護」とは程遠い勝手な行動を行ったため、被疑者本人は孤立無援な状態であった。<br />富山地裁における裁判の席でも、柳原は容疑を認め、結局自白と少女らの証言が重要視され有罪判決が下り同年11月に懲役3年が確定。<br />柳原は刑に服し2005年1月に出所した。<br />被疑者逮捕後も、強姦事件が起き、被害者の証言で共通していたのは、強姦後「100を数えるまで動くな」と逃げる時間稼ぎがされていたことであった。<br />似たような事件が発生しながらも、富山県警は捜査を行わなかった。<br />真犯人の男は後の服役中に、富山県警は被疑者が犯人ではないと分かっていたが、それを隠蔽した、と報道機関への手紙で記している。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">真犯人判明後</span></strong><br />出所した後の2006年11月、別の婦女暴行事件で鳥取県警察に逮捕された男が自分が真犯人である旨を自供（真犯人は被疑者が起訴・有罪とされた2件を含めた14件の婦女暴行事件で起訴され、懲役25年の判決が下された）。<br /><br />2007年1月17日に被疑者の親族へ経緯を説明し富山県警察が謝罪、1月19日に記者会見で事実が判明した。<br />これを受けて被疑者は、無罪判決を求める再審請求を富山地裁に行った。<br />また、1月29日に富山地検の検事正が彼に直接謝罪した。<br />富山県警が冤罪事件について謝罪したとされる1月23日夜の翌日、24日昼に、彼は富山地検に呼び出され、「当時の取り調べ捜査官、担当検事を恨んでいません」などという内容の調書を意思に反して作成させられた上、彼が知らないはずの事件の詳細についての自白書類が富山県警により捏造され、署名・指印させられたことが判明している。<br /><br />再審の論告公判は8月22日に行われ、弁護側は無罪を求刑し、2007年10月10日に無罪判決が言い渡された。<br />また検察側が控訴しなかったため判決はそのまま確定した。<br /><br />無罪となった彼は真犯人発覚後にマスコミのインタビューに答え、尋問した刑事から「身内が間違いないと認めている」と告げられ弁明しても聞いてもらえず、罪を認めざるを得ない状況に陥ったと答えている。<br />また、同意すること以外は意見を述べることを刑事から禁じられた上で、刑事の言うことが事実だという念書を書かされ署名させられていたとも告白している。<br />再審では尋問した取調官の証人尋問が却下されている。<br />藤田敏裁判長が「ただ単に無罪判決を出す手続きにすぎない」と理由を述べたためで、この発言に対し、「本気で真相を究明し、反省する気があるのか」という疑問や非難が出た。<br />さらに判決公判でも謝罪は裁判所側からは一切行われておらず、判決中述べた裁判官のあまりにも他人事な発言に彼は「むかついた」と裁判長に対し怒りを露わにした。<br />無罪判決が確定したものの、取調べをした警察官などの証人尋問および処分が実施されていないなど冤罪事件が発生した真実が解明されていないとして、彼は2009年5月14日に国家賠償訴訟を提訴した。2015年4月に富山地裁は、富山県警察の捜査の違法性を認め、県に1966万円の支払いを命じる判決を言い渡し確定した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">その後</span></strong><br />他の冤罪事件の被害者たちも同様の経験を証言をしていることから、このような方法は冤罪を生み出す手法として時代や場所を選ばずに行われている方法であるとも指摘される。<br />2007年6月6日には、日本弁護士連合会主催で「えん罪を生み出す取調べの実態」というシンポジウムが緊急に開かれている。<br />日弁連側は取調べを録画・録音（「可視化」）する事でこのような事態を防ぐべしと主張している。<br />当時の富山県警安村隆司本部長は「結果においては誤認逮捕になりましたけれども、当時の捜査幹部の指揮あるいは捜査員の捜査手法、それを一つ一つをあげつらって捜査の懈怠があった、あるいは、そこに捜査のミスがあったという事で処分に該当するものだというふうに判断できるのか、どうかと言う事になると、当時の捜査状況をつぶさに検証した立場からして（処分を）ちゅうちょせざるを得ない。」として富山県警は誰一人処分されなかった。<br /><br />さらに、長勢甚遠法務大臣（当時）が再審前の2007年1月26日に彼に対し謝罪した際、自白の強要については違法性が無いと述べ、当時の捜査員に対して処分は行わないことを決定している。<br />彼は出所後、地元富山県で再就職活動をしたが25社で不採用になり、2009年に国家賠償訴訟を提訴したことにより、兄、姉からこれ以上、家の姓を汚すなと兄、姉とは断絶状態となった。<br />彼は、取調べで受けた威嚇のPTSDで就職をドクターストップされ、2年余り服役した補償として国から約1000万円を受け取ったが、生活費や弁護士費用で底を尽き、都内杉並区在住で生活保護を受けている。<br />警察・検察の捜査機関が「カメラがあると容疑者が話しにくくなり真実が見えなくなる」と全面可視化に抵抗している事に対して、2014年4月22日に法務省法制審議会要請共同行動として、彼は他の冤罪被害者と全面可視化を要請した。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>2000年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>鹿児島市亜ヒ酸混入事件</title>
      <pubDate>Tue, 13 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1999年10月07日木曜日鹿児島市亜ヒ酸混入事件（かごしましあひさんこんにゅうじけん）は、1999年10月7日、鹿児島県鹿児島市西千石町の「三反田藤男設計事務所」で、給湯室のポットに入った亜ヒ酸を飲んで5人が入院した事件。公訴時効を迎えて、未解決事件となる。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1999年10月07日木曜日鹿児島市亜ヒ酸混入事件（かごしましあひさんこんにゅうじけん）は、1999年10月7日、鹿児島県鹿児島市西千石町の「三反田藤男設計事務所」で、給湯室のポットに入った亜ヒ酸を飲んで5人が入院した事件。
公訴時効を迎えて、未解決事件となる。<a></a>概要
設計事務所に勤める社員5人が体調不良を訴えて入院する事件が発生。
女性二人と男性一人は昼食後にポットのお湯でお茶を飲み、残されたポットに残った湯と沸かしたやかんを調べると亜ヒ酸が検出。
毒物事件として捜査が開始された。
事件当日にポットは2回給湯されており、1回目の湯だけを飲んだ社員は特に何もなかった。
そのため、1回目の給湯時刻午前8時半と2回目の給湯時刻午前11時半の約3時間の間に、亜ヒ酸が混入された可能性があるとして捜査された。
亜ヒ酸を扱うシロアリ業者1227業者、2715人から事情を聞くも物的証拠や証言を得られなかった。
2014年10月8日、殺人未遂罪の公訴時効を迎えることとなった。

<a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT">
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<div>1999年10月07日木曜日<br></div>鹿児島市亜ヒ酸混入事件（かごしましあひさんこんにゅうじけん）は、1999年10月7日、鹿児島県鹿児島市西千石町の「三反田藤男設計事務所」で、給湯室のポットに入った亜ヒ酸を飲んで5人が入院した事件。<br />公訴時効を迎えて、未解決事件となる。<a name="more"></a><span style="font-size:large;"><strong><strong>概要</strong></strong></span><br />設計事務所に勤める社員5人が体調不良を訴えて入院する事件が発生。<br />女性二人と男性一人は昼食後にポットのお湯でお茶を飲み、残されたポットに残った湯と沸かしたやかんを調べると亜ヒ酸が検出。<br />毒物事件として捜査が開始された。<br />事件当日にポットは2回給湯されており、1回目の湯だけを飲んだ社員は特に何もなかった。<br />そのため、1回目の給湯時刻午前8時半と2回目の給湯時刻午前11時半の約3時間の間に、亜ヒ酸が混入された可能性があるとして捜査された。<br />亜ヒ酸を扱うシロアリ業者1227業者、2715人から事情を聞くも物的証拠や証言を得られなかった。<br />2014年10月8日、殺人未遂罪の公訴時効を迎えることとなった。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>1990年代</category>
      <author>takaHERO</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,mikaiketujikenjouhou/477875911</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://mikaiketujiken.xblog.jp/article/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82%E9%83%BD%E7%AD%91%E5%8C%BA%E9%B4%A8%E6%B1%A0%E5%85%AC%E5%9C%92%E5%86%85%E5%A5%B3%E6%80%A7%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6.html</link>
      <title>横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件</title>
      <pubDate>Mon, 12 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2005年08月25日木曜日横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件（よこはましつづきくかもいけこうえんないじょせいさつじんじけん）は、2005年8月、横浜市で女性が殺害された事件。未解決事件。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2005年08月25日木曜日横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件（よこはましつづきくかもいけこうえんないじょせいさつじんじけん）は、2005年8月、横浜市で女性が殺害された事件。未解決事件。
<a></a>概要
台風に見舞われていた2005年8月25日、神奈川県横浜市都筑区の鴨池公園の雑木林で女性Aが殺害。
遺体は、公園内のスーツケースの中に入れられて隠すように木などを上においてあり、男性によって3日後の28日に発見された。
遺体から約50メートル離れた草むらに女性Aのバッグが落ちていた。
遺体に着衣の乱れや、目立った外傷はなかった。
女性Aが、25日夕方頃から職場を出た後に行方不明になっており、当日は職場に車で送ってもらった夫に帰りは自分で何とかすると話していた。
神奈川県警は、殺人・死体遺棄事件として捜査。
司法解剖を行い、死因は首を絞められたことによる窒息死だと判明。
台風もあって目撃証言は多くはなかったが、男女2人組みが女性Aと一緒にいたという目撃証言が寄せられている。
そのため、神奈川県警はイラストを公開して情報提供を呼び掛けている。
女性の携帯電話や財布は見つかっていない。


<a href="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595.gif" target="_blank"><img border="0" alt="96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595.gif" src="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595-thumbnail2.gif" width="253" height="505"></a>

  身長  170センチメートル位
  やせ形・黒髪・若い男
  白色又は透明ビニール傘
  黒・紺・茶・灰色系で、濃い色のハーフパンツ

<a href="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910.gif" target="_blank"><img border="0" alt="634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910.gif" src="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910-thumbnail2.gif" width="284" height="505"></a>

  ピンク色傘
  フード付きベージュ色ジャンパー
  紺色ジーパン
  紺色トートバッグを所持

<a href="https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesc1033.htm" target="_blank">横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件情報提供のお願い</a>



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      <content:encoded><![CDATA[
<div>2005年08月25日木曜日<br></div>横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件（よこはましつづきくかもいけこうえんないじょせいさつじんじけん）は、2005年8月、横浜市で女性が殺害された事件。未解決事件。<br /><a name="more"></a><span style="font-size:large;"><strong>概要</strong></span><br />台風に見舞われていた2005年8月25日、神奈川県横浜市都筑区の鴨池公園の雑木林で女性Aが殺害。<br />遺体は、公園内のスーツケースの中に入れられて隠すように木などを上においてあり、男性によって3日後の28日に発見された。<br />遺体から約50メートル離れた草むらに女性Aのバッグが落ちていた。<br />遺体に着衣の乱れや、目立った外傷はなかった。<br />女性Aが、25日夕方頃から職場を出た後に行方不明になっており、当日は職場に車で送ってもらった夫に帰りは自分で何とかすると話していた。<br />神奈川県警は、殺人・死体遺棄事件として捜査。<br />司法解剖を行い、死因は首を絞められたことによる窒息死だと判明。<br />台風もあって目撃証言は多くはなかったが、男女2人組みが女性Aと一緒にいたという目撃証言が寄せられている。<br />そのため、神奈川県警はイラストを公開して情報提供を呼び掛けている。<br />女性の携帯電話や財布は見つかっていない。<br /><br /><br /><a href="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595.gif" target="_blank"><img border="0" alt="96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595.gif" src="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595-thumbnail2.gif" width="253" height="505" onclick="location.href = 'https://mikaiketujiken.xblog.jp/upload/detail/image/96208107-4344-4B10-B19D-CED9453F0595-thumbnail2.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />  身長  170センチメートル位<br />  やせ形・黒髪・若い男<br />  白色又は透明ビニール傘<br />  黒・紺・茶・灰色系で、濃い色のハーフパンツ<br /><br /><a href="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910.gif" target="_blank"><img border="0" alt="634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910.gif" src="https://mikaiketujikenjouhou.up.seesaa.net/image/634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910-thumbnail2.gif" width="284" height="505" onclick="location.href = 'https://mikaiketujiken.xblog.jp/upload/detail/image/634BB705-CBAF-463D-844B-6FFAA940E910-thumbnail2.gif.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />  ピンク色傘<br />  フード付きベージュ色ジャンパー<br />  紺色ジーパン<br />  紺色トートバッグを所持<br /><br /><a href="https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesc1033.htm" target="_blank">横浜市都筑区鴨池公園内女性殺人事件情報提供のお願い</a><br /><br /><div style="text-align:center;"><iframe src="https://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?o=9&p=12&l=ur1&category=primevideochannel&banner=19AYN4A0VP0DS7X0YWG2&f=ifr&linkID=893e15eb704c873df9aa43c9b2d4a53d&t=mikaiketuji08-22&tracking_id=mikaiketuji08-22" width="300" height="250" scrolling="no" border="0" marginwidth="0" style="border:none;" frameborder="0"></iframe></div>

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            <category>2000年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>岩木病院車椅子放火事件</title>
      <pubDate>Sun, 11 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2011年12月25日日曜日岩木病院車椅子放火事件（いわきびょういんくるまいすほうかじけん）は、2011年12月25日に大阪府大阪市東成区の岩木病院で車椅子が燃えて患者が死亡した事件。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2011年12月25日日曜日
岩木病院車椅子放火事件（いわきびょういんくるまいすほうかじけん）は、2011年12月25日に大阪府大阪市東成区の岩木病院で車椅子が燃えて患者が死亡した事件。
<a></a>
概要
2011年12月25日、大阪市東成区中道の岩木病院3階の病室で入院していたAが乗っていた車椅子が燃える事態が発生。
車椅子の背もたれ部分などが燃えており、職員が消火器を使って火を消した。
Aは上半身にやけどを負う重傷となり、そのことがもとで2日後に死亡。
室内に火の気がないことから、警察は放火事件の可能性を視野に捜査する。

2012年6月1日、大阪府警捜査1課は、車椅子に放火してAを死亡させたとして傷害致死の疑いで詐欺罪で公判中だったKを逮捕。
Kは2011年10月から2012年4月までAと同じ病院に入院しており、事件当時は別室だったが、Aと同室だった時期もあった。
Kは、2012年4月に生活保護費を不正受給したとして詐欺罪の容疑で逮捕されて公判中で、再逮捕の流れとなっている。
大阪地検は、傷害致死の疑いで2012年7月にKを起訴した。

裁判経過
検察側は、Kが別の病室でAが座っていた車いすにライターで火を付けて死亡させたと主張。
火災報知機を聞いて現場に向かった看護師が「病室の奥にKがいたのを見た」と証言した。
一方で、弁護側は事件現場にいなかったと主張。
救助に向かった警備員や患者も「Kを見ていない」と証言している。

2013年10月8日、大阪地裁は無罪判決（求刑懲役10年）を言い渡した。
判決では、救助に向かった警備員や患者もKを見ておらず、Kが犯行現場にいたという看護師の証言について「勘違いの可能性がある」として信用性を否定。犯行現場にいた証拠はないとした。
検察側は、この判決に対して控訴を断念、無罪判決が確定した。

<a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT">
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      <content:encoded><![CDATA[
<div>2011年12月25日日曜日<br></div><br />岩木病院車椅子放火事件（いわきびょういんくるまいすほうかじけん）は、2011年12月25日に大阪府大阪市東成区の岩木病院で車椅子が燃えて患者が死亡した事件。<br /><a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br />2011年12月25日、大阪市東成区中道の岩木病院3階の病室で入院していたAが乗っていた車椅子が燃える事態が発生。<br />車椅子の背もたれ部分などが燃えており、職員が消火器を使って火を消した。<br />Aは上半身にやけどを負う重傷となり、そのことがもとで2日後に死亡。<br />室内に火の気がないことから、警察は放火事件の可能性を視野に捜査する。<br /><br />2012年6月1日、大阪府警捜査1課は、車椅子に放火してAを死亡させたとして傷害致死の疑いで詐欺罪で公判中だったKを逮捕。<br />Kは2011年10月から2012年4月までAと同じ病院に入院しており、事件当時は別室だったが、Aと同室だった時期もあった。<br />Kは、2012年4月に生活保護費を不正受給したとして詐欺罪の容疑で逮捕されて公判中で、再逮捕の流れとなっている。<br />大阪地検は、傷害致死の疑いで2012年7月にKを起訴した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">裁判経過</span></strong><br />検察側は、Kが別の病室でAが座っていた車いすにライターで火を付けて死亡させたと主張。<br />火災報知機を聞いて現場に向かった看護師が「病室の奥にKがいたのを見た」と証言した。<br />一方で、弁護側は事件現場にいなかったと主張。<br />救助に向かった警備員や患者も「Kを見ていない」と証言している。<br /><br />2013年10月8日、大阪地裁は無罪判決（求刑懲役10年）を言い渡した。<br />判決では、救助に向かった警備員や患者もKを見ておらず、Kが犯行現場にいたという看護師の証言について「勘違いの可能性がある」として信用性を否定。犯行現場にいた証拠はないとした。<br />検察側は、この判決に対して控訴を断念、無罪判決が確定した。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>2010年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>城丸君事件</title>
      <pubDate>Sat, 10 Oct 2020 18:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1984年01月10日火曜日城丸君事件（じょうまるくんじけん）とは、1984年1月10日に札幌市豊平区で発生した男児失踪・死亡事件。また、黙秘権についても注目されたことでも知られている。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1984年01月10日火曜日城丸君事件（じょうまるくんじけん）とは、1984年1月10日に札幌市豊平区で発生した男児失踪・死亡事件。
また、黙秘権についても注目されたことでも知られている。<a></a>

概要
1984年1月10日、札幌市豊平区で当時9歳の男児・城丸君（以下A）の行方が分からなくなる。
A宅が資産家だったため身代金誘拐の可能性も考えられたが、身代金を要求する電話がなかったため、公開捜査となった。
その後の捜査でAの母親の証言によると、Aは「ワタナベさんと名乗る人物のところに行く」と言い残して姿を消したことが判明。
後に当時29歳の元ホステス（以下X）のアパートの階段をAが上っていったと言う目撃証言が得られたため、警察は彼女を重要参考人として事情聴取したが、有力な情報は得られなかった。

1986年12月30日、Xの嫁ぎ先の新十津川町の自宅から出火し、彼女の夫（以下B）が死亡する火事が起こる。
Bには1億円あまりの保険金がかけられており、Xはそれを請求した（後に取り下げ）。
その後、Bの弟が焼けた家を整理していると、焼けた人間の骨を発見し警察に届け出た。当時のDNA型鑑定では焼けた人骨から身元は確認できなかった。
警察はXを再度事情聴取したが、その際にポリグラフでは特異反応が示され、大罪を犯したことを匂わせる発言をしていたが、骨の身元が判明していなかったこともあり、この時はこれ以上の追及は断念された。

1998年、短鎖式DNA型鑑定を用いた結果、その人骨がAのものであることが判明し、同年12月7日にXを殺人罪で起訴。
殺人罪の公訴時効成立の1ヶ月前だった。
この時点で傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪の公訴時効は成立していた。
検察はXが借金を抱えていたことから身代金目的で誘拐して殺害したとしたが、死因を特定できなかったために殺害方法は不詳として立件せざるをえなかった。

裁判
一審では被告人は罪状認否で「起訴状にあるような事実はない」と主張したこと以外は、被告人質問における検察官のおよそ400の質問に対し、全て「答えることはない」と返し黙秘した。
なお、弁護人は被告人は黙秘権を行使する意向であるとして、被告人質問を実施すること自体に反対していた。
検察側は多くの状況証拠からXが殺人罪を犯したとして無期懲役を求刑。
一方で弁護側は無罪を主張した。
Xは経済的に困窮しておらず、身代金目的の誘拐を企てる動機もないとされ、その他殺害に及ぶに相応する理由も捜査では見出せなかった。
しかし、遺体を長期間保管したり、火災で焼損した骨を隠しておく、当初の捜査時に事件との関与をほのめかす供述をしていることが事実認定された。

2001年5月30日、札幌地裁（佐藤學裁判長）はXの家から見つかった骨がAであることを認定し、その他の証言より、電話で男児を呼び出したのはXであるとした。
また、多くの状況証拠から男児AがXの元にいる間、Xの犯罪的行為によって死亡した疑いが強いと、なんらかの致死行為があったことを認定したものの、殺意があったかどうかは疑いが残ると認定し、Xに対し殺人罪について無罪判決が下る。
傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪で有罪にすることはできなかった。
裁判では黙秘権の行使について、札幌地裁判決は「被告人としての権利の行使にすぎず、被告人が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と示した。
検察側は控訴した。

2002年3月19日、札幌高裁の裁判長門野博は、控訴を棄却した。
札幌高裁判決は前記一審の判示を支持し、加えて「弁護人が被告人質問をすることに反対していたとしても被告人質問を行うことは不当ではないが、実際に被告人質問を行ってみて黙秘することを明確にした被告人に対してなおも質問を続けたのは、被告人の黙秘権を危うくするもので疑問」と一審の検察官の質問の在り方にも黙秘権保護の見地から批判的な判示をした。
検察側は最高裁への上告を断念したため、Xの無罪が確定した。

同年5月2日に、Xは、刑事補償1160万円の請求を札幌地裁に起こした。
同年11月18日、札幌地裁が請求の約80%に相当する、930万円を支払うことが決定した。

反響
被害者遺族は
「被告人は黙秘権を悪用せず、事実を話してほしい。黙秘も権利であろうが、（被害者の常識からは）納得がいかない」
「殺意の認定が主な争点となったが、法曹家の言葉遊びのようだ。人が1人亡くなった重みの方が、はるかに重大だ」
「弁護士は、真実を明かす基本的なことを忘れ、百の真実を一つの言いがかりで無罪に持って行こうとしているとしか思えない」
と黙秘権を行使する被告人と弁護人およびそれを容認して無罪判決を出した司法に批判的なコメントをしている。

その他
被害者の父親は衆議院議員阿部文男の秘書をしていた。
阿部文男が逮捕・起訴された共和汚職事件の東京地裁で1993年6月11日に開かれた法廷に被害者の父親は元札幌事務所所長として出席し、「事情聴取されていた贈賄企業幹部から事件に関する捜査状況を聞き出していた」旨の証言をしている。


<a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT">
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<div><span>1984年01月10日火曜日</span></div><div><span>城丸君事件（じょうまるくんじけん）とは、1984年1月10日に札幌市豊平区で発生した男児失踪・死亡事件。</span><br></div><br />また、黙秘権についても注目されたことでも知られている。<a name="more"></a><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br />1984年1月10日、札幌市豊平区で当時9歳の男児・城丸君（以下A）の行方が分からなくなる。<br />A宅が資産家だったため身代金誘拐の可能性も考えられたが、身代金を要求する電話がなかったため、公開捜査となった。<br />その後の捜査でAの母親の証言によると、Aは「ワタナベさんと名乗る人物のところに行く」と言い残して姿を消したことが判明。<br />後に当時29歳の元ホステス（以下X）のアパートの階段をAが上っていったと言う目撃証言が得られたため、警察は彼女を重要参考人として事情聴取したが、有力な情報は得られなかった。<br /><br />1986年12月30日、Xの嫁ぎ先の新十津川町の自宅から出火し、彼女の夫（以下B）が死亡する火事が起こる。<br />Bには1億円あまりの保険金がかけられており、Xはそれを請求した（後に取り下げ）。<br />その後、Bの弟が焼けた家を整理していると、焼けた人間の骨を発見し警察に届け出た。当時のDNA型鑑定では焼けた人骨から身元は確認できなかった。<br />警察はXを再度事情聴取したが、その際にポリグラフでは特異反応が示され、大罪を犯したことを匂わせる発言をしていたが、骨の身元が判明していなかったこともあり、この時はこれ以上の追及は断念された。<br /><br />1998年、短鎖式DNA型鑑定を用いた結果、その人骨がAのものであることが判明し、同年12月7日にXを殺人罪で起訴。<br />殺人罪の公訴時効成立の1ヶ月前だった。<br />この時点で傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪の公訴時効は成立していた。<br />検察はXが借金を抱えていたことから身代金目的で誘拐して殺害したとしたが、死因を特定できなかったために殺害方法は不詳として立件せざるをえなかった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">裁判</span></strong><br />一審では被告人は罪状認否で「起訴状にあるような事実はない」と主張したこと以外は、被告人質問における検察官のおよそ400の質問に対し、全て「答えることはない」と返し黙秘した。<br />なお、弁護人は被告人は黙秘権を行使する意向であるとして、被告人質問を実施すること自体に反対していた。<br />検察側は多くの状況証拠からXが殺人罪を犯したとして無期懲役を求刑。<br />一方で弁護側は無罪を主張した。<br />Xは経済的に困窮しておらず、身代金目的の誘拐を企てる動機もないとされ、その他殺害に及ぶに相応する理由も捜査では見出せなかった。<br />しかし、遺体を長期間保管したり、火災で焼損した骨を隠しておく、当初の捜査時に事件との関与をほのめかす供述をしていることが事実認定された。<br /><br />2001年5月30日、札幌地裁（佐藤學裁判長）はXの家から見つかった骨がAであることを認定し、その他の証言より、電話で男児を呼び出したのはXであるとした。<br />また、多くの状況証拠から男児AがXの元にいる間、Xの犯罪的行為によって死亡した疑いが強いと、なんらかの致死行為があったことを認定したものの、殺意があったかどうかは疑いが残ると認定し、Xに対し殺人罪について無罪判決が下る。<br />傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪で有罪にすることはできなかった。<br />裁判では黙秘権の行使について、札幌地裁判決は「被告人としての権利の行使にすぎず、被告人が何らの弁解や供述をしなかったことをもって、犯罪事実の認定に不利益に考慮することが許されないのはいうまでもない」と示した。<br />検察側は控訴した。<br /><br />2002年3月19日、札幌高裁の裁判長門野博は、控訴を棄却した。<br />札幌高裁判決は前記一審の判示を支持し、加えて「弁護人が被告人質問をすることに反対していたとしても被告人質問を行うことは不当ではないが、実際に被告人質問を行ってみて黙秘することを明確にした被告人に対してなおも質問を続けたのは、被告人の黙秘権を危うくするもので疑問」と一審の検察官の質問の在り方にも黙秘権保護の見地から批判的な判示をした。<br />検察側は最高裁への上告を断念したため、Xの無罪が確定した。<br /><br />同年5月2日に、Xは、刑事補償1160万円の請求を札幌地裁に起こした。<br />同年11月18日、札幌地裁が請求の約80%に相当する、930万円を支払うことが決定した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">反響</span></strong><br />被害者遺族は<br />「被告人は黙秘権を悪用せず、事実を話してほしい。黙秘も権利であろうが、（被害者の常識からは）納得がいかない」<br />「殺意の認定が主な争点となったが、法曹家の言葉遊びのようだ。人が1人亡くなった重みの方が、はるかに重大だ」<br />「弁護士は、真実を明かす基本的なことを忘れ、百の真実を一つの言いがかりで無罪に持って行こうとしているとしか思えない」<br />と黙秘権を行使する被告人と弁護人およびそれを容認して無罪判決を出した司法に批判的なコメントをしている。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">その他</span></strong><br />被害者の父親は衆議院議員阿部文男の秘書をしていた。<br />阿部文男が逮捕・起訴された共和汚職事件の東京地裁で1993年6月11日に開かれた法廷に被害者の父親は元札幌事務所所長として出席し、「事情聴取されていた贈賄企業幹部から事件に関する捜査状況を聞き出していた」旨の証言をしている。<br /><br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>1980年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://mikaiketujiken.xblog.jp/article/%E9%96%8B%E6%88%90%E9%AB%98%E6%A0%A1%E7%94%9F%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6.html</link>
      <title>開成高校生殺人事件</title>
      <pubDate>Fri, 09 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1977年10月30日日曜日開成高校生殺人事件（かいせいこうこうせいさつじんじけん）は、1977年10月30日未明、東京都北区のマンションで開成高等学校生が父親に絞首されて殺害された事件。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1977年10月30日日曜日開成高校生殺人事件（かいせいこうこうせいさつじんじけん）は、1977年10月30日未明、東京都北区のマンションで開成高等学校生が父親に絞首されて殺害された事件。<a></a>
概要
事件の発生については殺害された少年の家庭内暴力などといった異常な行為が大きな要因とされており、このまま事態が進行したならば息子が犯罪者になってしまうと考え、それを避けるために犯行を決行するに至ったとされる。
息子の殺害後には両親も揃って自殺することを考えていたものの決行せず、父親が自首することとなった。
法廷で情状証人として父親をかばった母親の努力もあり、異例の温情判決で執行猶予つきの懲役3年となった。
しかしその後、母親は「息子を返して」と父親をなじりはじめ、1978年7月2日に首吊り自殺した。
母親は息子と近親相姦の関係にあった、と早坂暁は記している。
事件の経緯を綴った高杉晋吾の著作によれば、優秀な成績でミッションスクールの小学校を卒業し、開成中学校に入学した当時のプライドを、事件の前年1976年5月に家庭内における権威であった祖父が死去したことで「全面的に崩壊させ、自虐的劣等感を噴出させた」と指摘している。
学友の両親が「医師、弁護士、大学教授」など「ステータス・シンボル」の揃った肩書きであったのに対し、少年の父親は小学校卒で大衆酒場の経営者であったが、母親と担任の教師との面談の場でレストラン経営と言うと「『おやじの店はレストランじゃない』と顔色を変えて怒った」という。
1983年にテレビ朝日「子供たちの復讐 ~開成高校生殺人事件」として、石橋蓮司、宮本信子、坂上忍主演でドラマ化された。

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      <content:encoded><![CDATA[
1977年10月30日日曜日<div>開成高校生殺人事件（かいせいこうこうせいさつじんじけん）は、1977年10月30日未明、東京都北区のマンションで開成高等学校生が父親に絞首されて殺害された事件。</div><a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br />事件の発生については殺害された少年の家庭内暴力などといった異常な行為が大きな要因とされており、このまま事態が進行したならば息子が犯罪者になってしまうと考え、それを避けるために犯行を決行するに至ったとされる。<br />息子の殺害後には両親も揃って自殺することを考えていたものの決行せず、父親が自首することとなった。<br />法廷で情状証人として父親をかばった母親の努力もあり、異例の温情判決で執行猶予つきの懲役3年となった。<br />しかしその後、母親は「息子を返して」と父親をなじりはじめ、1978年7月2日に首吊り自殺した。<br />母親は息子と近親相姦の関係にあった、と早坂暁は記している。<br />事件の経緯を綴った高杉晋吾の著作によれば、優秀な成績でミッションスクールの小学校を卒業し、開成中学校に入学した当時のプライドを、事件の前年1976年5月に家庭内における権威であった祖父が死去したことで「全面的に崩壊させ、自虐的劣等感を噴出させた」と指摘している。<br />学友の両親が「医師、弁護士、大学教授」など「ステータス・シンボル」の揃った肩書きであったのに対し、少年の父親は小学校卒で大衆酒場の経営者であったが、母親と担任の教師との面談の場でレストラン経営と言うと「『おやじの店はレストランじゃない』と顔色を変えて怒った」という。<br />1983年にテレビ朝日「子供たちの復讐 ~開成高校生殺人事件」として、石橋蓮司、宮本信子、坂上忍主演でドラマ化された。<br /><br /><div style="text-align:center;"><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+AY4Z8Y+1WP2+63H8H" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="468" height="60" alt="" src="https://www24.a8.net/svt/bgt?aid=200609660662&wid=001&eno=01&mid=s00000008903001024000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www10.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+AY4Z8Y+1WP2+63H8H" alt=""><br /></div><br /><br />

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            <category>1970年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>島田事件</title>
      <pubDate>Thu, 08 Oct 2020 12:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1954年03月10日水曜日島田事件（しまだじけん）とは1954年（昭和29年）3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが、1989年に再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つ（免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件）。日本弁護士連合会が支援していた。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1954年03月10日水曜日島田事件（しまだじけん）とは1954年（昭和29年）3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件である。
被告人が死刑の確定判決を受けたが、1989年に再審で無罪になった冤罪事件。
四大死刑冤罪事件の一つ（免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件）。
日本弁護士連合会が支援していた。<a></a>

概要

1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬萊橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。

静岡県警の司法鑑定医師（後の静岡県警科学捜査研究所長）の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。

被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、務めの人に見える若い男だった。
警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。

1954年5月24日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼町（現各務原市）で静岡県警が重要参考人としていた赤堀 政夫（あかほり まさお、当時25歳）が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。

警察は赤堀を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、赤堀に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

元被告人の状況

赤堀は軽度の知能障害と精神病歴があった。また二度の自殺未遂歴と二度の窃盗の前歴があり、一回目の窃盗の時は少年院に入院し、二回目の窃盗の時は刑務所で服役し1953年7月に出所した。
就職しても職場に溶け込めず、短期で離職する傾向があった。

裁判

赤堀の弁護人には、片や自民党県支部の重鎮である鈴木信雄、片や松川事件元弁護人であった若手の大蔵敏彦という対照的な2人が付いた。
1954年7月2日に初公判が開かれたが、裁判では赤堀は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。
裁判は下記のとおりの経過・結果になった。

地裁公判中に裁判官は東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼し、古畑は被害者が強姦され胸部を打撃され首を絞められて殺害されたと、赤堀の供述調書に適合する鑑定結果を報告した。
弁護人は東京都立松沢病院医師の鈴木喬と林暲に赤堀の精神鑑定を依頼し、鈴木と林の両医師は、赤堀には軽度の知能障害があるが、心身喪失でも心神耗弱でもなく刑事責任能力はあるとの鑑定結果を報告した。

裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある赤堀が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。

1958年（昭和33年）5月23日、静岡地方裁判所は赤堀に死刑判決を言い渡した。
1960年（昭和35年）2月17日、東京高等裁判所は第一審・死刑判決を支持して被告人・赤堀の控訴を棄却する判決を言い渡した。
1960年12月5日に最高裁判所は被告人・赤堀の上告を棄却する判決を言い渡し、12月26日付で赤堀の死刑判決が確定した。
死刑囚となった赤堀は1961年（昭和36年）8月17日に第一次再審請求を行ったが[5]、1962年（昭和37年）2月28日付で棄却された。
1964年（昭和39年）6月6日に第二次再審請求したが、1966年（昭和41年）2月8日付で棄却された。
これを受け同年4月14日に第三次再審請求を行ったが、1969年（昭和44年）5月9日付で棄却された。

1969年（昭和44年）5月9日に行った第四次再審請求も1977年（昭和52年）3月11日付で静岡地裁が棄却を決定したが、赤堀および弁護人は3月14日付で即時抗告を申し立て、これを審理した東京高裁は1983年（昭和58年）5月23日付で静岡地裁の原決定を取り消し、審理を地裁に差し戻すことを決定した。
その後、静岡地裁は1986年（昭和61年）5月30日付で検察（静岡地検）側・弁護人側から提出された双方の鑑定結果を吟味した上で「死刑囚・赤堀の自白は被害者の遺体胸部の傷の状況から信用性・真実性に疑問がある」などの理由から再審開始・死刑の執行停止を決定した。
検察側（静岡地方検察庁）は同決定を不服として東京高裁に即時抗告したが、東京高裁は1987年（昭和62年）3月25日付で即時抗告棄却（原決定支持）を決定。
検察側（東京高等検察庁）が最高裁に特別抗告しなかったために再審開始が確定した。

静岡地裁で1987年10月19日に再審初公判が開かれ、計12回の再審公判でも検察側・弁護人側の双方がそれぞれ法医学者を証人尋問したほか、21点の証拠が提出され、改めて「自白の信用性・被害者の傷」などについて証拠調べが行われた。
1988年（昭和63年）8月8日に静岡地裁刑事第1部（尾崎俊信裁判長）で再審論告求刑公判が開かれ、静岡地検が再び赤堀に死刑を求刑した一方、翌9日には弁護人が最終弁論で無罪を主張し、被告人・赤堀も最終意見陳述で改めて無実を訴え結審した。

そして1989年（平成元年）1月31日10時21分から再審判決公判が開かれ、静岡地裁刑事第1部（裁判長：尾崎俊信 / 陪席裁判官：高梨雅夫・桜林正己）は被告人・赤堀に無罪判決を言い渡した。
赤堀はこの時点まで静岡刑務所拘置監に在監していたが、同日12時過ぎになって逮捕以来34年8か月ぶりに釈放された。
静岡地検は控訴を検討したが、1989年2月10日に「控訴しても無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」として控訴を断念することを決定したため、赤堀の無罪が確定した。

再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木完夫医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。

無実の人が誤認で逮捕・起訴され、死刑判決が確定後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて4件目であった。

その他

この事件では、赤堀の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。

赤堀に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木完夫医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。
複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、赤堀の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。

赤堀は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。

無実の人を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。

無罪確定後の元被告人

赤堀は1989年1月31日に釈放され、名古屋市に居を定めたが、釈放当初は健康状態が悪化しており、実社会への適応も困難であったため、1974年9月に結成された「全国「精神病」者集団」による赤堀の支援活動に加わっていた大野萌子（「全国「精神病」者集団」創設者の1人）が介護者として日常生活を手助けすることになり、以後現在まで共同生活を営んでいる。
赤堀はしばらく病院への入退院を繰り返すなどしたものの、徐々に平穏な暮らしが営めるようになった。
大野や他の支援者とともに死刑廃止運動や代用監獄廃止運動の集会等に参加するなど、積極的な活動を行っている。
自ら見解を述べたり、シンポジウムにて発言するなどしており、袴田事件や名張毒ぶどう酒事件などの再審や、それらの事件の確定死刑囚に対する支援を訴えている。
2009年5月16日、静岡県浜名郡新居町（現・湖西市）で裁判の支援者らが開いた赤堀の傘寿（5月18日生まれ）を祝う会合に出席。
会合に先立って行われた記者会見では、同月21日より実施される裁判員制度について「法律を知らない一般の人に正しい判断ができるか分からず、冤罪防止の観点から反対である」との意見を表明した。
裁判員制度への疑念を抱いていた赤堀であったが、2012年、自身がその裁判員の候補者に指名されるという事態を迎えた。
同年10月上旬、覚醒剤取締法違反事件の裁判員裁判について、赤堀を裁判員に選任する手続きを行うための呼び出し状と質問票が名古屋地方裁判所から届いたが、裁判員法では70歳以上の高齢者は裁判員選任を辞退できる旨定められていることから、赤堀は当該規定に基づき辞退した。
同年11月15日に支援者とともに記者会見し、この件について明らかにした。
この席上で赤堀は取り調べの全面的な録音・録画（可視化）などが実現していないことを指摘。
質問票には辞退する旨と「裁判所は信用できない」等と理由を記し、名古屋地方裁判所に返送したという。


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1954年03月10日水曜日<div>島田事件（しまだじけん）とは1954年（昭和29年）3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人、殺人死体遺棄事件である。<br />被告人が死刑の確定判決を受けたが、1989年に再審で無罪になった冤罪事件。<br />四大死刑冤罪事件の一つ（免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件）。<br />日本弁護士連合会が支援していた。</div><a name="more"></a><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br /><br />1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬萊橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。<br /><br />静岡県警の司法鑑定医師（後の静岡県警科学捜査研究所長）の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。<br /><br />被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、務めの人に見える若い男だった。<br />警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。<br /><br />1954年5月24日、当時の岐阜県稲葉郡鵜沼町（現各務原市）で静岡県警が重要参考人としていた赤堀 政夫（あかほり まさお、当時25歳）が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。<br /><br />警察は赤堀を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、赤堀に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">元被告人の状況</span></strong><br /><br />赤堀は軽度の知能障害と精神病歴があった。また二度の自殺未遂歴と二度の窃盗の前歴があり、一回目の窃盗の時は少年院に入院し、二回目の窃盗の時は刑務所で服役し1953年7月に出所した。<br />就職しても職場に溶け込めず、短期で離職する傾向があった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">裁判</span></strong><br /><br />赤堀の弁護人には、片や自民党県支部の重鎮である鈴木信雄、片や松川事件元弁護人であった若手の大蔵敏彦という対照的な2人が付いた。<br />1954年7月2日に初公判が開かれたが、裁判では赤堀は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。<br />裁判は下記のとおりの経過・結果になった。<br /><br />地裁公判中に裁判官は東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼し、古畑は被害者が強姦され胸部を打撃され首を絞められて殺害されたと、赤堀の供述調書に適合する鑑定結果を報告した。<br />弁護人は東京都立松沢病院医師の鈴木喬と林暲に赤堀の精神鑑定を依頼し、鈴木と林の両医師は、赤堀には軽度の知能障害があるが、心身喪失でも心神耗弱でもなく刑事責任能力はあるとの鑑定結果を報告した。<br /><br />裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある赤堀が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。<br /><br />1958年（昭和33年）5月23日、静岡地方裁判所は赤堀に死刑判決を言い渡した。<br />1960年（昭和35年）2月17日、東京高等裁判所は第一審・死刑判決を支持して被告人・赤堀の控訴を棄却する判決を言い渡した。<br />1960年12月5日に最高裁判所は被告人・赤堀の上告を棄却する判決を言い渡し、12月26日付で赤堀の死刑判決が確定した。<br 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/>赤堀はこの時点まで静岡刑務所拘置監に在監していたが、同日12時過ぎになって逮捕以来34年8か月ぶりに釈放された。<br />静岡地検は控訴を検討したが、1989年2月10日に「控訴しても無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」として控訴を断念することを決定したため、赤堀の無罪が確定した。<br /><br />再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木完夫医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。<br /><br />無実の人が誤認で逮捕・起訴され、死刑判決が確定後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて4件目であった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">その他</span></strong><br /><br />この事件では、赤堀の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。<br /><br />赤堀に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木完夫医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。<br />複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、赤堀の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。<br /><br />赤堀は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。<br /><br />無実の人を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">無罪確定後の元被告人</span></strong><br /><br />赤堀は1989年1月31日に釈放され、名古屋市に居を定めたが、釈放当初は健康状態が悪化しており、実社会への適応も困難であったため、1974年9月に結成された「全国「精神病」者集団」による赤堀の支援活動に加わっていた大野萌子（「全国「精神病」者集団」創設者の1人）が介護者として日常生活を手助けすることになり、以後現在まで共同生活を営んでいる。<br />赤堀はしばらく病院への入退院を繰り返すなどしたものの、徐々に平穏な暮らしが営めるようになった。<br />大野や他の支援者とともに死刑廃止運動や代用監獄廃止運動の集会等に参加するなど、積極的な活動を行っている。<br />自ら見解を述べたり、シンポジウムにて発言するなどしており、袴田事件や名張毒ぶどう酒事件などの再審や、それらの事件の確定死刑囚に対する支援を訴えている。<br />2009年5月16日、静岡県浜名郡新居町（現・湖西市）で裁判の支援者らが開いた赤堀の傘寿（5月18日生まれ）を祝う会合に出席。<br />会合に先立って行われた記者会見では、同月21日より実施される裁判員制度について「法律を知らない一般の人に正しい判断ができるか分からず、冤罪防止の観点から反対である」との意見を表明した。<br />裁判員制度への疑念を抱いていた赤堀であったが、2012年、自身がその裁判員の候補者に指名されるという事態を迎えた。<br />同年10月上旬、覚醒剤取締法違反事件の裁判員裁判について、赤堀を裁判員に選任する手続きを行うための呼び出し状と質問票が名古屋地方裁判所から届いたが、裁判員法では70歳以上の高齢者は裁判員選任を辞退できる旨定められていることから、赤堀は当該規定に基づき辞退した。<br />同年11月15日に支援者とともに記者会見し、この件について明らかにした。<br />この席上で赤堀は取り調べの全面的な録音・録画（可視化）などが実現していないことを指摘。<br />質問票には辞退する旨と「裁判所は信用できない」等と理由を記し、名古屋地方裁判所に返送したという。<br /><br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" 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            <category>1950年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>岩手17歳女性殺害事件</title>
      <pubDate>Wed, 07 Oct 2020 18:00:00 +0900</pubDate>
            <description>2008年07月01日火曜日岩手17歳女性殺害事件は、2008年7月1日に発生した殺人事件。元警視庁警察官でジャーナリストの黒木昭雄は冤罪疑惑のある事件としている。</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
2008年07月01日火曜日岩手17歳女性殺害事件は、2008年7月1日に発生した殺人事件。
元警視庁警察官でジャーナリストの黒木昭雄は冤罪疑惑のある事件としている。<a></a>
概要
2008年7月1日午後4時半ごろ、岩手県下閉伊郡川井村（現：宮古市）の河川で17歳女性(S･K①)の他殺体が道路工事作業員に発見された。
司法解剖の結果、死亡推定時刻は6月30日から7月1日であり、死因は頭部の外傷か首の圧迫とみられ、首を絞められ瀕死の状態となった後に橋から突き落とされた可能性が高いとみられる。

事件直前の6月28日、被害女性(S･K①)を電話で呼び出していた、被害女性S･K①の知人の男性O（当時28歳）が7月2日午前10時頃に知人へ「断崖からの飛び降り」を示唆する電話をかけた。
翌7月3日に断崖現場から男性Oが所持していた財布や煙草などの遺留品が発見されたが、遺体は発見されなかったため、偽装自殺と判断された。

2008年7月29日、警察は男性Oを女性(S･K①)の殺人容疑で全国に指名手配した。
事件の直後、自損事故を起こして放置された男性Oの車の中から見つかった血痕や遺留品の鑑定などから、警察は男性Oを女性(S･K①)を殺害した犯人と断定し、公開手配した。
10月31日、事件は捜査特別報奨金制度に指定された。

事件から2年後となる2010年6月30日、指名手配されている容疑者男性Oの父親は、国や岩手県に対して、指名手配の差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こしたが、2014年4月11日盛岡地裁は請求を棄却した。
原告O側は控訴せず、決定は確定した。
請求自体は棄却されたものの、盛岡地裁は指名手配のポスター等でOが「犯人」とする表記そのものについて「無罪推定に反する」と認定した。

指名手配されたOの情報
警察庁は報奨金300万円の捜査特別報奨金制度を告知している。
生年月日：1979年11月16日
身長：170cm位
体格：中肉

冤罪疑惑
ジャーナリストの黒木昭雄は、男性Oを「被害女性(S･K①)の殺人犯」と断定した岩手県警察に疑念を抱き、この事件について独自の調査をしていた。
その後、黒木は練炭自殺により死亡した。

男性Aの男性Oに対する脅迫事件
2006年10月頃に男性Oは、東北地方沿岸部に住む男性A（当時30歳代）の紹介で、関東地方にある就職先を斡旋してもらったが、男性Oは数日で仕事場から逃亡した。

2007年5月1日夕方、男性Oは、男性Aから、紹介された就職先のメンツを潰されたという理由で迷惑料を要求された。
男性Aは男性Oに日本刀を咥えさせ、「迷惑料が払えないなら、指を置いていけ」と指詰めを示唆する言動で脅し、男性Oを債務者、男性Aを債権者とする120万円の借用書を書かせた。
この際、男性Oは、男性Oと交際中であった女性(S･K②)（1年3ヶ月後に発生する殺人事件の被害女性(S･K①)と同姓同名で高校時代の同級生）を保証人とした120万円の支払いを約束させられ、女性(S･K)の名前と携帯番号をその場で書かされた。
しかし、男性Oは120万を払わずに男性Aから逃亡した。
男性Aは、携帯サイトに男性Oの実名と身体特徴と顔写真を添付するとともに、「金を払わず逃げ回っているとんでもないやつ」という旨の書き込みを同サイトに書き込んだ（携帯サイトは、殺人事件から間もない2008年7月15日付けで閉鎖された）。

2008年6月3日、男性Oは、男性Aを被疑者とする恐喝事件の被害届を提出した。
殺人事件が起こる2日前の6月28日昼過ぎ以降、男性Oは被害届の取り下げようとした（被害届自体は、最終的に取り下げとなっていない）。
2日後、殺害当日の6月30日午後10時30分頃、男性Aは、携帯番号を知っていた男性Oと交際中の女性(S･K②)を呼び出した。
翌日の7月1日に、女性(S･K①)が他殺体で発見された。
男性Aは、恐喝事件について、自分は日本刀を所持しておらず、指詰めも迫っていないと恐喝を否定した。
また、借用書に書かせた金額は120万円ではなく10万円であり、ネットへの書き込みは自分が思うことを書き込んだだけと主張した。

男性Oの親族による、男性Oの指名手配に対する訴訟
男性Oの親族は「男性Oが殺人犯と断定されて公開手配されたことに納得ができない」として、人権救済の申し立てを起こした。
一方、男性Oは、小指と薬指にケガをしたとして、殺害事件2日前の6月29日夜7時頃に病院を診察のため訪れており、病院では「右手の握力が無く右手全体が動かない状態」だと診断されていた。
そのため男性Oは、診断の2日後となる殺害当日に被害女性(S･K①)の首を絞め、一人で遺体を投げ捨てることは不可能と主張した。

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      <content:encoded><![CDATA[
<div>2008年07月01日火曜日<br></div>岩手17歳女性殺害事件は、2008年7月1日に発生した殺人事件。<br />元警視庁警察官でジャーナリストの黒木昭雄は冤罪疑惑のある事件としている。<a name="more"></a><br /><strong><span style="font-size:large;">概要</span></strong><br />2008年7月1日午後4時半ごろ、岩手県下閉伊郡川井村（現：宮古市）の河川で17歳女性(S･K①)の他殺体が道路工事作業員に発見された。<br />司法解剖の結果、死亡推定時刻は6月30日から7月1日であり、死因は頭部の外傷か首の圧迫とみられ、首を絞められ瀕死の状態となった後に橋から突き落とされた可能性が高いとみられる。<br /><br />事件直前の6月28日、被害女性(S･K①)を電話で呼び出していた、被害女性S･K①の知人の男性O（当時28歳）が7月2日午前10時頃に知人へ「断崖からの飛び降り」を示唆する電話をかけた。<br />翌7月3日に断崖現場から男性Oが所持していた財布や煙草などの遺留品が発見されたが、遺体は発見されなかったため、偽装自殺と判断された。<br /><br />2008年7月29日、警察は男性Oを女性(S･K①)の殺人容疑で全国に指名手配した。<br />事件の直後、自損事故を起こして放置された男性Oの車の中から見つかった血痕や遺留品の鑑定などから、警察は男性Oを女性(S･K①)を殺害した犯人と断定し、公開手配した。<br />10月31日、事件は捜査特別報奨金制度に指定された。<br /><br />事件から2年後となる2010年6月30日、指名手配されている容疑者男性Oの父親は、国や岩手県に対して、指名手配の差し止めと損害賠償を求める訴訟を起こしたが、2014年4月11日盛岡地裁は請求を棄却した。<br />原告O側は控訴せず、決定は確定した。<br />請求自体は棄却されたものの、盛岡地裁は指名手配のポスター等でOが「犯人」とする表記そのものについて「無罪推定に反する」と認定した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">指名手配されたOの情報</span></strong><br />警察庁は報奨金300万円の捜査特別報奨金制度を告知している。<br />生年月日：1979年11月16日<br />身長：170cm位<br />体格：中肉<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">冤罪疑惑</span></strong><br />ジャーナリストの黒木昭雄は、男性Oを「被害女性(S･K①)の殺人犯」と断定した岩手県警察に疑念を抱き、この事件について独自の調査をしていた。<br />その後、黒木は練炭自殺により死亡した。<br /><br /><span style="font-size:large;"><strong>男性Aの男性Oに対する脅迫事件</strong></span><br />2006年10月頃に男性Oは、東北地方沿岸部に住む男性A（当時30歳代）の紹介で、関東地方にある就職先を斡旋してもらったが、男性Oは数日で仕事場から逃亡した。<br /><br />2007年5月1日夕方、男性Oは、男性Aから、紹介された就職先のメンツを潰されたという理由で迷惑料を要求された。<br />男性Aは男性Oに日本刀を咥えさせ、「迷惑料が払えないなら、指を置いていけ」と指詰めを示唆する言動で脅し、男性Oを債務者、男性Aを債権者とする120万円の借用書を書かせた。<br />この際、男性Oは、男性Oと交際中であった女性(S･K②)（1年3ヶ月後に発生する殺人事件の被害女性(S･K①)と同姓同名で高校時代の同級生）を保証人とした120万円の支払いを約束させられ、女性(S･K)の名前と携帯番号をその場で書かされた。<br />しかし、男性Oは120万を払わずに男性Aから逃亡した。<br />男性Aは、携帯サイトに男性Oの実名と身体特徴と顔写真を添付するとともに、「金を払わず逃げ回っているとんでもないやつ」という旨の書き込みを同サイトに書き込んだ（携帯サイトは、殺人事件から間もない2008年7月15日付けで閉鎖された）。<br /><br />2008年6月3日、男性Oは、男性Aを被疑者とする恐喝事件の被害届を提出した。<br />殺人事件が起こる2日前の6月28日昼過ぎ以降、男性Oは被害届の取り下げようとした（被害届自体は、最終的に取り下げとなっていない）。<br />2日後、殺害当日の6月30日午後10時30分頃、男性Aは、携帯番号を知っていた男性Oと交際中の女性(S･K②)を呼び出した。<br />翌日の7月1日に、女性(S･K①)が他殺体で発見された。<br />男性Aは、恐喝事件について、自分は日本刀を所持しておらず、指詰めも迫っていないと恐喝を否定した。<br />また、借用書に書かせた金額は120万円ではなく10万円であり、ネットへの書き込みは自分が思うことを書き込んだだけと主張した。<br /><br /><strong>男性Oの親族による、男性Oの指名手配に対する訴訟</strong><br />男性Oの親族は「男性Oが殺人犯と断定されて公開手配されたことに納得ができない」として、人権救済の申し立てを起こした。<br />一方、男性Oは、小指と薬指にケガをしたとして、殺害事件2日前の6月29日夜7時頃に病院を診察のため訪れており、病院では「右手の握力が無く右手全体が動かない状態」だと診断されていた。<br />そのため男性Oは、診断の2日後となる殺害当日に被害女性(S･K①)の首を絞め、一人で遺体を投げ捨てることは不可能と主張した。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt=""><br />

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            <category>2000年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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      <title>みどり荘事件</title>
      <pubDate>Tue, 06 Oct 2020 18:00:00 +0900</pubDate>
            <description>1981年06月27日土曜日　後編みどり荘事件（みどりそうじけん）は、1981年（昭和56年）6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年（平成8年）6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
1981年06月27日土曜日　後編みどり荘事件（みどりそうじけん）は、1981年（昭和56年）6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。
大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。

隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。
控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年（平成8年）6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、当番弁護士制度創設のきっかけになった事件、また、被疑者や家族に対する報道被害事件としても知られている。<a></a>

控訴審

弁護団の拡充
一審判決後の記者会見を終えた古田・徳田両弁護士に、安東正美弁護士が「よかったら私も手伝わせてほしい」と声をかけた。
安東弁護士は、かつて大分合同法律事務所に所属していたことから古田弁護士の先輩にあたり、また、徳田弁護士とも以前ともに訴訟にあたった経験があり旧知の間柄であった。
敗訴に落ち込んでいた両弁護士は、大喜びでこの申し入れを受け入れた。
裁判資料を取り寄せた安東弁護士は、読み込むほどに一審判決が不当なものであると確信していった。
3弁護士はさらに多くの弁護士に弁護団への参加を呼び掛けていくことで一致したが、私選弁護人とはいえ報酬は全く期待できないこともあり、また、弁護団の団結を重視したことから、気心の知れた弁護士に一人ひとり裁判資料を手渡して声をかける形をとった。
大分合同法律事務所の所属弁護士やOB、一緒に仕事をしたことのある弁護士を中心に声を掛けていき、控訴趣意書提出までに柴田圭一・西山巌両弁護士が加わって5名の弁護団となり、さらに岡村正淳・鈴木宗嚴・千野博之、福岡の岩田務各弁護士が参加して、控訴審第3回公判（1990年（平成2年）9月17日）ころまでに9名となった。
その後も荷宮由信・岡村邦彦・須賀陽二・工藤隆各弁護士が参加して、最終的にみどり荘事件の弁護団は13名となっている。
弁護団は一審判決を再検討し、自白の任意性、102号室の住民の証言、輿掛の身体に咬傷がなかったこと、輿掛の衣類から被害者の血液の跡が見つかっていないこと、輿掛の首や左手甲の傷、毛髪鑑定の信用性などについての一審判決の判断を批判し、さらに、犯行時間に205号室の住民が203号室から「神様、お許しください」という声を聞いているが輿掛にはそうした信仰はないこと、『荒鷲の要塞』の酒場の場面が輿掛のアリバイを証明していることなどを、輿掛が犯人ではないことを示す証拠として指摘する控訴趣意書をまとめた。
最終的に200頁に及んだ控訴趣意書は、提出期限の前日に完成し、提出期限の1989年（平成元年）11月30日に、福岡高裁に直接持参して提出された。

科警研毛髪鑑定批判
再鑑定依頼
福岡高裁における控訴審第1回公判は、1990年（平成2年）3月14日に開かれた。
控訴審で弁護側は、「自白」の任意性・信用性、科警研の毛髪鑑定、輿掛の首・左手甲の傷の3点を中心に一審判決を覆す立証を試みた。
5月28日の控訴審第2回公判では早くも被告人質問を行い、同年12月17日の控訴審第5回公判までをかけて「自白」当時の取り調べ状況や家族との面会と引き換えに「自白」に応じた過程などを質問して、捜査の違法性と「自白」が強要されたものであることを明らかにしていった。

「自白」の任意性の審理と並行して、弁護団は科警研の毛髪鑑定の信用性の問題に取り組んだ。
同年7月28日、岩田弁護士から弁護団に、福井女子中学生殺人事件でも吉村悟弁護士が中心になって科警研の毛髪鑑定の信用性を争っているという情報がもたらされた。
両事件の毛髪鑑定は、鑑定時期こそ6年の開きがあったものの、鑑定人も同じで、鑑定手法も全く同じ「形態学的検査」「血液型検査」「分析化学的検査」の3つからなるものであった。
弁護団は早速吉村弁護士を知っていた西山弁護士を通じて資料を取り寄せ、たまたま9月21日に大分地裁に出廷する予定があった吉村弁護士を招いて勉強会を行った。
吉村弁護士は、毛髪鑑定に関する国内外の大量の文献を示し、形態学的検査で個人識別が可能と考えているのは科警研だけであること、分析化学的検査では同一人でもデータの変動が大きく（個人内変動性）他人間でもあまり違いがないこと（個人間恒常性）を指摘して、科警研の毛髪鑑定が信頼できないものであると説明した。
同年11月16日・17日と翌1991年（平成3年）1月7日の弁護団会議でも吉村弁護士から直接助言を受け、吉村弁護士の「弁護側として科警研の鑑定結果を覆す再鑑定を行ったほうが良い」という助言をもとに、弁護団は岩田弁護士が作成した「元素分析批判」「形態学的検査批判」という科警研の毛髪鑑定の矛盾点を指摘する2つの文書を手に再鑑定を依頼する専門家を探していった。
とはいえ、科警研が鑑定した毛髪は鑑定の過程で全量を費消しており、再鑑定は科警研の鑑定データを基に分析し直すという形をとるよりほかなかった。

1990年（平成2年）11月19日、岩田弁護士は九州大学医学部法医学教室の永田武明教授を訪問し、科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して意見を求めた。
永田教授は「元素分析批判の指摘は正しいと思う」と述べたが、「自分は毒物を専門とする法医学者であり、この内容であれば科学評論家か数理統計学者がふさわしい」という意見を示して再鑑定については固辞した。
岩田弁護士はその足で大学の同級生であった九州大学工学部の香田徹助教授を訪ねて適任者を尋ねたところ、数理統計学の世界的権威として九州大学理学部の柳川堯助教授を紹介された。
そのころ、徳田弁護士も別ルートで再鑑定を引き受けてくれる専門家をあたっていた。
徳田弁護士は、11月20日、中学校の同級生で野球部ではバッテリーを組んだ間柄の九州大学工学部の立居場光生教授を訪ね、やはり科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して適任者を尋ねると、同じく柳川助教授が適任であろうとの返答を得た。

同年11月26日、徳田弁護士と岩田弁護士は、科警研の鑑定書と「元素分析批判」「形態学的検査批判」を持って柳川助教授を訪ねて意見を求めた。
柳川助教授は、その場で科警研の毛髪鑑定の杜撰さを指摘し、12月には「統計的鑑定法」、翌1991年（平成3年）1月には「元素分析スペクトルパターンによる鑑定批判」と題する意見書を作成して弁護団に送付した。
弁護団は意を強くし、1991年（平成3年）1月31日の第6回公判後に古田・徳田・安東・鈴木・西山・岩田・千野の7弁護士が柳川助教授に再鑑定を依頼した。
柳川助教授は意見書は書いても再鑑定までするつもりはなかったようであったが、弁護団の懇願を受けて再鑑定を受諾した。

これとは別に、第6回公判で弁護団は被害者の首に巻かれたオーバーオールに付着していた体毛の鑑定を要求し、鑑定の結果、オーバーオールに付いていた体毛は血液型O型のものであることが判明した。
さらに、遺体の司法解剖の鑑定書に何かが剥がされた形跡を発見して鑑定人に問い合わせたところ、当初の鑑定書には被害者の膣内に残されていた精液はA型またはO型であると記された付属説明文書が添付されていたことが分かった。
被害者の陰毛に付着していた精液は輿掛と同じB型のものであったため、弁護団は複数犯による犯行を強く疑うようになっていった。

柳川鑑定
柳川助教授の再鑑定書は1991年（平成3年）5月17日に完成した。
鑑定書は、統計的鑑定法の考え方についての総論と、この観点から具体的に科警研の毛髪鑑定の誤りを指摘する各論部分からなり、結論として「あらゆる点において、本件において採用された毛髪鑑定法は、信頼性ある科学的根拠をもった鑑定とはいえない」と断言するものであった。
弁護団は、この再鑑定書を5月23日の控訴審第8回公判に証拠として申請し、6月25日の第9回公判では柳川助教授の証人尋問が行われた。
柳川助教授は鑑定書と証言で、まず、被告人の毛髪のサンプルが少なすぎて被告人の毛髪の特徴自体が明確になっていないこと、科警研の形態学検査は鑑定人の経験に依存しており科学的とは言えないことを指摘した。
分析化学的検査としての元素分析については、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の毛髪の塩素・カリウム・カルシウムの含有量を比較して輿掛と同程度であったと鑑定したものであるが、各人のデータには幅があり、しかも被害者の姉と輿掛の数値は大部分が重なっていることを示し、本来、この重なりあった部分は「鑑定不可能領域」であり、事件現場で採取された毛髪の数値がこの領域にあれば被害者の姉のものとも輿掛のものとも判定できないものであると指摘した。
それにもかかわらず、科警研の毛髪鑑定で事件現場で採取された毛髪のデータが輿掛のデータと一致したと判断しているのは失当であり、そもそも人の毛髪はほとんどの人で元素含有量のデータは大部分が重なるものであるから3人の毛髪だけと比較しても全く意味がないと主張した。形態学検査も含めて、科警研の毛髪鑑定は、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の3人の毛髪としか比較しておらず、事件現場で採取された毛髪が3人以外のものである可能性を全く考慮していないとし、これは、3人の中に犯人がいるという前提に立たなければ有効ではなく、方法論からしてすでに致命的欠陥を抱えた、結論ありきの鑑定であると非難した。
そして、最終的に、科警研の毛髪鑑定は「科学の名に値しない」と切って捨てた。
これに対して検察側は、7月24日付で科警研で毛髪鑑定を実施した科警研の技官の反論書を提出し、8月1日の第10回公判では柳川助教授に対する反対尋問を行ったが、反論書は柳川教授の指摘に正面から答えるものではなく、検事による反対尋問も的外れな質問を繰り返しては前田一昭裁判長からたびたび注意を受けるありさまであった。

法廷外の支援
『夢遊裁判』
1991年（平成3年）2月、ノンフィクション作家の小林道雄は、互いの親類の結婚により縁続きとなる者から、甥が熱心に支援しているというみどり荘事件の資料を受け取った。
この甥は、輿掛の自衛隊時代の銃剣道部の先輩で、自衛隊退職後は東亜国内航空の整備士として羽田整備工場に勤務していた。
彼は、輿掛の逮捕当時、警察からの電話で自衛隊時代の様子を聞かれて輿掛が自衛隊を退職することになった飲酒運転事故のことを話したが、輿掛をよく知る彼は、輿掛が殺人事件の被疑者となっていることについては「彼は絶対にそんなことをする人間ではない。何かの間違いではないか」という話をしていた。
その後、控訴審の審理が始まってから、弁護団は輿掛から「T警部補に、自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていたと追及された」という話を聞き、安東弁護士が彼に確認の電話を入れた。
彼は、自分の話の一部が切り取られ、言っていないことを捏造されて輿掛の追及に利用されたことに憤り、以後、輿掛の無実を信じて積極的に活動していた。
直接彼から事件と裁判の詳細を聞き興味を持った小林は、大分で弁護団と会い、控訴審第7回公判以降の裁判をたびたび傍聴し、輿掛とも面会するなど取材を重ねた。
弁護団は、輿掛の逮捕前後のマスコミの報道姿勢に対する不信感からジャーナリストの肩書を持つ小林を警戒感をもって迎えたが、丁寧な取材を通じて積み上げた事実を基に判断しようとする小林の取材手法に触れる中で徐々に信頼関係が形成されていった。
一方の小林は、初めて会ったときの自然体の対応や庶民的な飲み屋に通う姿から、初対面で弁護団に好印象を持ったと記している。
それでも小林は、当初、事件については予断を持つまいと努めていたが、弁護団から渡された一審判決を読んで、少なくとも刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」に反すると感じ、また、取材を通じて輿掛の無実を信じるようになっていった。

1991年（平成3年）10月、小林は月刊誌『現代』誌上で「女子大生暴行殺人事件-ある『夢遊裁判』の記録」を発表し、事件の問題点を世に問うた。
この反響は大きく、みどり荘事件は社会的な注目を集めるようになっていった。 
その後、小林は、後述するDNA鑑定の鑑定結果を待っていた控訴審第17回公判ころまでをまとめた『夢遊裁判 ―なぜ「自白」したのか―』を1993年（平成5年）6月に出版し、1996年（平成8年）12月には裁判終了後までの内容を大幅に加筆・改題したものが『&lt;冤罪&gt;のつくり方 ―大分・女子短大生殺人事件―』として文庫化された。

救援会
控訴審が始まってから弁護団は、広く事件の真実を伝え一審判決の不当性を訴える必要性を感じていた。

1991年（平成3年）11月29日の弁護団会議で、正当な判決を求める人々を組織して世論の力で外から裁判所を包囲する方針を確認し、安東弁護士を中心に救援会設立に向けて動き出した。

翌1992年（平成4年）1月26日に「みどり荘事件を考える会」を開催することを決め、1991年（平成3年）12月27日には、県内で様々な問題に取り組む約40名に、『現代』に載った小林の「夢遊裁判」を同封して参加を呼び掛ける文書を発送した。

1992年（平成4年）1月26日、大分市の大分文化会館で「みどり荘事件を考える会」が開催された。
事前の弁護団の心配をよそに、準備していた席はすぐに埋まったため急遽追加の椅子を持ち込み、最終的に約50名が参加する大盛況となった。
「考える会」では、一審判決や「自白」、科警研の毛髪鑑定、輿掛の傷などの問題点を、休憩なしで約4時間、弁護士が交替しながら熱く語った。
そして、3月9日の次回控訴審第13回公判で、直接輿掛を見て、その語る声を聞いて、輿掛の人柄を確認してほしいと傍聴を呼び掛けた。
その控訴審第13回公判には、それまでほとんど傍聴者のいなかった法廷に十数名の傍聴者が集まり、輿掛の被告人質問を見守った。
こうした人たちを中心に救援会の結成に向けた準備会を重ね、同年5月17日には市内中心街で結成集会への参加を呼び掛けるビラ1,000枚を配った。
呼びかけ人には57名が名を連ねた。
同年5月24日、大分市の大分県労働福祉会館で、真相報告会と救援会結成の集会が行われ、180名余りが参加した。
「考える会」と同じく各弁護士が事件と裁判の概要と問題点を語り、鈴木弁護士は「いけにえの論理にマスコミが加担」と題して当時のマスコミの報道姿勢を批判した。
参加者の一人、ホテル時代の輿掛の同僚は、マスコミの報道を信じて輿掛を犯人にしてしまったと自らを責め、年月がたって世間からいろいろと言われることも少なくなった中であえて姿を見せた輿掛の家族の気持ちを慮る言葉を涙ながらに語って、参加者の感動を呼んだ。
救援会は「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」（略称みどり荘救援会)と命名された。
みどり荘救援会は、安東弁護士を事務局長として、主に次のような活動を行っていった。

会報の発行
みどり荘救援会結成を報告した第1号から控訴審判決が確定した約5か月後の第20号まで、『無罪』と題する会報を発行した。
会報は結成総会や公判傍聴に参加できなかった会員にその内容を伝え、新たな会員の獲得や次回公判の傍聴を勧誘する役割を果たした。

真相報告会の開催
みどり荘救援会は、会員のつてを頼りに真相報告会を開催した。
結成3か月後の同年8月には佐伯市で100名、日田市で180名を集めるなど大分県内各地で報告会を繰り返し、1994年（平成6年）6月28日には初めて福岡市で開催するなど、最終的に約50回を数える報告会を実施して支援の輪を広げていった。

裁判の傍聴
前述の通り、弁護団はみどり荘救援会結成前の第13回公判の傍聴を呼び掛け、十数名が傍聴した。
傍聴活動の目的は、支援者が裁判を見て輿掛が無実かどうか自分自身で判断することと、大勢の支援者で傍聴席を埋めて輿掛を励ますことであった。
『夢遊裁判』を著したノンフィクション作家の小林は著書の中で、それまで閑散としていた傍聴席に十数名が入っただけで、法廷の雰囲気が一変したと記している。
みどり荘救援会結成後の第14回公判からは、救援会がマイクロバスを準備しての傍聴活動が始まったが、回を追うごとに傍聴希望者が増え、すぐにマイクロバスから大型バスに変わった。
行きのバスの車内では必ず同行する安東弁護士からこれまでの裁判の推移と当日の公判での弁護側の意図が説明され、帰りの車内では弁護士から当日の公判の解説を聞き、参加者にはビールが配られて一人ひとりが感想を述べ合った。
みどり荘救援会は、結成後1週間で190名の会員が集まり、同年末には400名を超えた。
そして、控訴審判決直前に開かれた1995年（平成7年）5月27日の第4回総会時点で、会員数は621名を数えている。

DNA鑑定

委嘱

弁護側が柳川鑑定書を提出した1991年（平成3年）5月23日の第8回公判終了後、前田裁判長は弁護団と検察を呼び出し、犯行現場に遺留されていた毛髪と被害者の膣内から採取された精液をDNA鑑定にかけることを打診した。
この日の毎日新聞朝刊の1面には、「DNAで犯罪捜査」の見出しで「警察庁が五月二二日に、DNA鑑定について、鑑定方法などを統一したうえで制度として犯罪捜査に導入することを決めた。この鑑定制度の導入により、わずかな血痕、体液、皮膚片から個人の特定が可能となり、日本の犯罪捜査は指紋制度の発足（一九一一年）以来の大転換となる」とする記事が掲載されていた。

科警研の毛髪鑑定の信用性を崩しかけていた弁護団はこの申し入れに困惑し、弁護団会議では侃々諤々の議論が交わされた。
当時、DNA鑑定は100万人に一人の確率で個人識別が可能などとマスコミで報道されていたが、まだまだ未知の領域でありDNA鑑定の科学的信頼性には強い疑問が残る、すでに無実の立証は尽くされており不要であるなどとして、弁護団は当初DNA鑑定には否定的であった。

しかし、8月1日の第10回公判後にも再度裁判所からDNA鑑定を行いたい意向が示され、最終的に弁護団も、膣内から採取された精液が輿掛のものではないとする鑑定結果が出れば無罪が明らかになること、無罪を争いながらDNA鑑定に反対することは弁護団も不安を持っていると受け取られかねないこと、打ち合わせの場で陪席裁判官から「DNA鑑定がなくても自白がある」との発言があったことから裁判所側がこの段階で無罪の心証を持っているとは言えないこと、さらに、裁判所の強い意向を考えると受け入れざるをえないとして、DNA鑑定の実施に同意した。

こうして、有罪にするにしろ無罪にするにしろ確かな証拠が欲しい裁判所、科警研鑑定が崩された検察、しぶしぶ受け入れた弁護団と、三者三様の思惑を抱きつつ、10月31日の第12回公判で日本で初めての裁判所の職権によるDNA鑑定が行われることが決まった。
鑑定は、DNA多型研究会（現日本DNA多型学会）運営委員長の筑波大学三澤章吾教授に依頼することになり、同年11月14日、同大社会医学系長室で鑑定人尋問が行われDNA鑑定が委嘱された。
鑑定事項は、被害者の膣内容物を採取したガーゼ片に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有するものが存在するか、事件現場から採取された毛髪に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有する毛髪が存在するかの2点であった。
三澤教授からは、同大の原田勝二助教授を鑑定補助者にしたいと申し出があり、認められた。
また、鑑定対象と同程度の古い毛髪を使用しての予備実験に約6か月、その後、実際の試料を用いた鑑定にさらに約6か月かかるため、鑑定結果が出るのは約1年後の翌年10月になる見込みであること、鑑定過程で試料は全量費消される旨の説明があった。
尋問に立ち会った古田・徳田・安東・西山の4弁護士は、後日検証が可能なように、試料は全量費消せず一部を残しておくこと、実験ノートを作成して実験データ等の鑑定経過を記録に残し提出できるようにしておくことの2点を要求し、三澤教授も了承した。

鑑定待ちの間の審理
DNA鑑定が委嘱されその結果を待つ間、弁護側は「自白」の任意性・信用性を焦点に再度被告人質問を行った。
ここで弁護側は、一審での輿掛と弁護人の信頼関係についてと、「自白」の変遷についてを明らかにしようとした。

一審判決が輿掛の「自白」の信用性を認める最大の拠り所としたのは、通常虚偽や強制された自白の撤回は公判の早い段階でなされるものであるのに、輿掛は一審第12回公判まで不利益供述を維持した点であった。
実際には一審第2回公判以降は輿掛に発言の機会はなく、次に発言した一審第12回公判で「自白」は撤回していたが、徳田弁護士の誘導尋問によって一審第1回・第2回公判での供述に引き戻されていた。
弁護団は、一審第1回・第2回公判で不利益供述をしたのは弁護人との間に信頼関係が築けていなかったためであり、第12回公判で徳田弁護士の誘導尋問に乗って「事件現場にいたことは覚えている」旨を認めたのは逆に信頼関係が生まれていたからだということを明らかにしようとしていた。
一審の古田・徳田両弁護人は一審での弁護活動を自己批判する供述録取録を提出し、1992年（平成4年）3月9日の第13回公判では輿掛の口から「一審での不利益供述の維持は弁護人に問題があった」ことを引き出そうとした。
特に一審第12回公判で強引に供述を引き戻した徳田弁護士は、事前に輿掛と何度も打ち合わせを行い、「そんなことは言えません」という輿掛に対して、「僕があのような質問をしなければ有罪認定の理由に使われることもなかった」
「君は僕を憎まなければならない」
「お前があんなことを言ったせいで有罪にされたんだという思いを込めて言わなかったら伝わらない」
と繰り返し説得した。
しかし、公判では輿掛から弁護人を批判するような言葉は出てこなかった。
公判後、輿掛は「先生たちの質問に充分に答えられず、申し訳なかったと思っています」と手紙に書いたが、輿掛の性格をよく知る徳田弁護士は「やっぱり駄目でしたね」と静かに笑っただけであった。

続く同年6月17日の第14回公判で、弁護団は「捜査段階における被告人の不利益供述の変遷と信用性に関する弁護人の意見書」と題する意見書を提出し、9月7日の第15回公判にかけて輿掛の「自白」の変遷について被告人質問が行われた。
この中で弁護団は、輿掛の「自白」が重要な点あるいは記憶違いとは考えにくい点で変遷しており、しかもその理由が全く説明されていないことを指摘した。
例えば、事件現場の203号室から自室に戻る際、当初は裸足であったとはっきり述べていたにもかかわらず、裸足だったと思う、裸足だった気がすると変わっている。
また、当初の自室に入る際に鍵を使ってドアを開けたと思うとの供述も、「鍵をしてあったかどうかがはっきりしません」という供述を経て、最終的に「鍵を開けて入った記憶はありません」と変遷している。
弁護団は、これらは輿掛にとって何の意味もないことであるが、警察が当初輿掛は窓伝いに203号室に侵入したと想定していたと仮定すると意味のある変遷になると主張した。
すなわち、窓伝いに侵入したとすると裸足で行動したはずであり、事件当日買い物から帰った時に部屋の鍵を閉めた輿掛は犯行後に鍵を開けて自室に戻ったはずである。
しかし、窓伝いに侵入したとする仮説が物理的に不可能なことが判明すると、裸足で行動したり、犯行後に戻ってくる自室のドアに鍵をかけてから203号室に行き犯行に及んだとすることは逆に極めて不自然となってしまうため、当初の供述を変更する必要が生じたと考えることができる。
弁護側は、こうした供述の変遷は、輿掛の「自白」が警察によって強制ないし誘導されたものである何よりの証拠であると主張した。

同年11月25日の第16回公判には、事件直後に輿掛に取材した新聞社の記者が出廷した。
輿掛は、事件直後に当時の恋人の実家に電話を掛けた後に新聞社の記者から取材を受けたと話していたが、どこの新聞社の誰であるのかは分かっていなかった。
しかし偶然にもこの年の4月にその記者が別件で徳田弁護士に手紙を出し、その中で事件直後の輿掛に取材をしたことが触れられていたことから、事件直後に取材したのがこの朝日新聞社の記者であることが分かったのであった。
この記者は当時の取材メモも残しており、記憶とこのメモをもとに事件直後の輿掛の様子を証言した。
この記者によれば、「みどり荘に到着したのは1時15分ころで、すでに規制線が張られていた。公衆電話で話していた輿掛を見つけて電話が終わるのを待って声をかけた。輿掛は質問にはすべて答え、特に不審な様子は感じなかった。輿掛は上下ジャージであったが、ジャージの下に何かを持っている様子もなかった。取材後はまっすぐみどり荘に帰って行った」ということであった。
また、後に輿掛が重要参考人として捜査対象になっていることを知った際には「非常に意外で何か自分は人を見る目がないのかなと思いました」と述べている。
弁護側は、この証言によって、電話を掛けるために外出した際に血液等の付着した下着などを処分する余裕があったとした一審判決の認定の誤りを立証できたと考えた。
一方、DNA鑑定の結果はなかなか提出されなかった。
当初は鑑定書の提出は1992年（平成4年）10月ころを目途とされていたが、同年9月の裁判所の問い合わせに対して三澤教授は12月末になると回答した。
しかし、年が明けても提出されず、1993年（平成5年）2月4日の第17回公判では新たに着任した金澤英一裁判長から「鑑定書の提出は4月上旬になる」と報告され、この公判以降鑑定結果待ちとなって審理は完全にストップした。

鑑定結果

三澤教授からの鑑定書は、1993年（平成5年）8月12日に福岡高裁に提出された。
三澤教授によるDNA鑑定は、対象試料からACTP2 (ACTBP2)と呼ばれるマイクロサテライトの部位をPCR法で増幅させ、そのGAAAの4塩基の反復回数でDNA型を判定するというものであった。
これは、マイクロサテライトをDNA鑑定に用いた日本で初めての例となった。
鑑定結果は、被害者の膣内容物が含まれたガーゼ片からは被害者と同一のDNA型しか検出されなかったが、事件現場から採取された毛髪のうちの1本（符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1）から、輿掛と同一のDNA型が検出されたというものであった。
鑑定書によれば、血縁関係にない全くの他人が同一のDNA型となる確率は0.088％とされていた。
鑑定結果に驚いた弁護団は同日中に鑑定書を入手すると直ちに内容の精査に入ったが、読めば読むほど鑑定書に多くの問題があることが明らかになった。
鑑定書には「鑑定には平成三年一一月一四日から平成五年八月一〇日までの六三六日を要した」と記されているにもかかわらず鑑定書の作成日付が「平成五年七月三一日」と記されていることをはじめ、鑑定データからは11/23型となるべき輿掛のDNA型が16/36型とされているなど、基本的な点や重要な点に多くの誤りが見つかった。
全26ページ（本文9ページ、註・図等17ページ）の鑑定書中で、弁護団が発見した誤りは53か所に及んだ。
また、膣内容物からは被害者のDNA型しか検出されなかったが、鑑定書には「この結果は、膣内容物中に精子が付着していなかった事を積極的に裏付けるものではない。勿論、輿掛良一の精子由来のDNAが膣内容物に存在しないという結論も導き出せない」と記述され、これは鑑定人が予断をもって鑑定にあたったことを感じさせるに十分であった。
さらに、0.088％という確率を導いたデータベースのサンプル数は65と少なすぎて信頼性に疑問があることに加え、添付された表から計算すると正しくは0.178％であった。なお、弁護団は鑑定書が届いて1週間後の8月19日の時点ですでに鑑定結果が誤りであることを示す決定的な証拠をつかんでいたが、輿掛と弁護団のほかにはごく一部の者にしか知らせずに切り札として温存し、当面は鑑定書の矛盾や問題点を正面から追及していくこととした。

9月21日、鑑定結果を受けての裁判所・弁護団・検察三者の打ち合わせがもたれた。
「この事件はDNAで決まりでしょう。いまさら、弁護団は何をされるのですか」という金澤裁判長に対して、弁護側はいくつかの誤りを示して鑑定の杜撰さを指摘し、三澤教授の尋問を求めた。
裁判所側は三澤教授の多忙を理由に筑波大学での出張尋問を提案したが、弁護側は裁判公開の原則を盾に公判での尋問を譲らず、福岡高裁で鑑定人尋問が行われることになった。
この打ち合わせの翌々日の9月23日、福岡高裁に三澤教授から鑑定書に対する訂正書が届き、32か所が訂正された。
刑事事件の鑑定書でこれだけの箇所が訂正されるというのは前代未聞であった。
また、訂正書の作成日付は9月20日付、消印は9月22日であった。

鑑定人尋問
1993年（平成5年）12月9日の第19回公判から、三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。
三澤教授は、鑑定書の作成日付については「秘書のワープロミス」と弁明したが、鑑定試料の番号の誤りについてや、鑑定試料と同程度の古い試料を用いた予備実験をいつからいつまで行ったのか、実際の鑑定試料を用いた鑑定はいつ始めたのかなどについては「実験に関与していないので分からない」と答えた。
また、弁護側の「基礎データに基づいて鑑定文が書かれるはずであるのに、基礎データと鑑定文が食い違っているということは、データの改竄や作り直しがあったのではないか」との追及に対しては「基本ルールに従った」「結論に間違いはない」と繰り返し、金澤裁判長からも「質問の意味が分かっていない」と諌められた。
そして、弁護側は鑑定前の尋問で約束していた実験データ等の提出を求めた。
三澤教授はこれに応じ、この公判に前後してX線写真のフィルムや測定データ等を提出した。

翌1994年（平成6年）1月26日の第20回公判でも三澤教授に対する鑑定人尋問が行われたが、この日の公判でも弁護側からの質問に三澤教授は「それは原田助教授がやった」と繰り返すばかりだった。
この日の尋問では、三澤教授は鑑定作業や鑑定書作成に全く関与しておらず原田助教授に任せきりにしていたこと、実際に鑑定試料を使って鑑定作業を始めたのは鑑定書を提出した1993年（平成5年）の5月であったことが明らかになった。
三澤教授に対するDNA鑑定の委嘱は1991年（平成3年）11月14日に行われたが、そこから鑑定書提出までの経緯は、後に判明したものも含めると以下のようなものであった。
1991年	11月	
鑑定委嘱	翌年10月に提出の見込

1992年	春頃	
同程度に古い試料の鑑定を試みるも判定不能
ACTP2の存在を知る	

9月
12月中に提出と回答

年末
ACTP2を用いた実験開始	

1993年	2月	
4月上旬に提出と回答

5月	
鑑定試料を用いた鑑定を始めるも判定不能	

7月	
判定可能となり鑑定書作成	

8月	
鑑定書提出

三澤教授らは、鑑定を引き受けた段階で、10年前の古い試料からDNA鑑定を行う具体的な方法を知らなかった。
1992年（平成4年）春まで、鑑定試料と同程度の古い試料を用いてGSTπやアポBといったマイクロサテライトで鑑定を試みたが、結果は判定不能であった。
たまたまそのころイギリスの科学雑誌『ヌクレィック・アシッズ・リサーチ』にACTP2というマイクロサテライトを紹介している記事を見つけ、三澤教授らはこれを用いた鑑定を試みることにする。
同年末ころから実験を始め、茨城県内の70名の血液からデータベースを作成して1993年（平成5年）4月の日本法医学会で「血痕・毛根試料からの個人識別に有効なVNTR（高変異反復配列）の検出」と題して報告し、異論が出なかったことから学会で承認された形となった。

学会後の1993年（平成5年）5月から、鑑定試料を用いた鑑定作業を始め、当初は判定不能であったが7月ころから判定可能となって原田助教授によって鑑定書が作成された。
三澤教授は、原田助教授から完成した鑑定書を受け取って、30分から1時間程度目を通して記名・押印して提出した。
このような経緯であったにもかかわらず、いまだACTP2を用いた実験を行う前の1992年（平成4年）9月に裁判所からの照会に対して12月中に鑑定書を提出できると回答し、鑑定試料を使った鑑定作業に入る前の1993年（平成5年）2月にも4月上旬に提出すると回答するなど、三澤教授らは裁判所や弁護団に対して虚偽の報告を繰り返していたのであった。

4月20日の第21回公判でも引き続き三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。
ここではデータベースの信用性が問われたが三澤教授はまともに回答できず、法廷には傍聴していた統計応用学者で元明治大学教授の木下信男の高笑いが響いた。
木下元教授は閉廷後に三澤教授のことを「集団遺伝学についてまったく無知」と語ったが、三澤教授は金澤裁判長からも公判中に理解不足を指摘されている。
また、この日の公判で、検察側・弁護側双方が三澤教授の鑑定書に対する意見書を提出した。
検察側は、原田助教授を鑑定補助者として実験を行わせることは鑑定を委嘱する際に弁護人も了承していると主張したが、弁護側は、宣誓の上で鑑定を引き受けたのはあくまで三澤教授であり、原田助教授を鑑定補助者とすることが認められているとはいっても限度があるとして鑑定書は真正に作成されたとはいえず証拠能力がないと主張し、多忙や人員不足、鑑定に必要なアイソトープを扱う免許がないなどとして原田助教授に丸投げした三澤教授は鑑定人としての自覚や資格に欠けると厳しく指摘した。
さらに、弁護側は意見書の中で、これまで隠してきた毛髪の長さの問題を初めて指摘した。

長さの問題
弁護団が指摘した毛髪の長さの問題とは、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」の毛髪が15.6センチメートルの長さがあったという点である。
事件当時の輿掛の髪型はパンチパーマで、当時警察に任意提出した毛髪は最も長いものでも7センチメートルであり、一目見て輿掛のものではないと分かるものであった。
実際、この「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」は事件当日の1981年（昭和56年）6月28日に被害者の部屋の和室の押入れ前で採取されたもので、大分県警の科捜研から警察庁の科警研に毛髪鑑定に出す際にも、長さや形状から被害者または被害者の姉のものと判断されて対象から除かれたものであった。
それでも検察側は、たまたま長いものがあったのではないかと主張した。

1994年（平成6年）6月6日の第22回公判では、実際に鑑定にあたった原田助教授に対する尋問が行われた。
原田助教授は、検察側の主尋問に対して、鑑定書でいう「同一の型」とは「類似性が高い」という意味であると証言した。
弁護団は、「同一の型」と「類似性が高い」では全く意味が違うと驚いたが、鑑定の信用性が揺らいできたと感じて軌道修正を図ったものととらえた。
この日の弁護側の質問では、原田助教授に対してACTP2法でのDNA型の分類方法を繰り返し確認した。
ACTP2法はGAAAの4塩基の繰り返し回数で判定するものであるので理論上は4塩基ごとに分類すれば良いはずであるのに、三澤鑑定では1塩基ごとで分類していたためである。
しかし、実際にはACTP2に3塩基や5塩基の不規則なものもあることが分かったため1塩基単位の分類とされており、原田助教授は、この分類方法では1塩基でも違えば他人であること、また、総塩基数が同じであっても3塩基や5塩基のものも含めて結果として同一になっている可能性があり、その場合も他人であることを認めた。

7月4日の第23回公判には、事件当時の輿掛の髪の長さを立証するために弁護側の申請した3名の証人が出廷した。
一人目は、輿掛の長姉であった。
長姉は事件の約10か月前に執り行われた輿掛の父の葬儀の様子を写真に撮っており、そこには、短髪の輿掛が写っていた。
長姉は、写真は父の葬儀の時のものであり、その前日に「喪主だからきちんとしなければいけない」と言って輿掛を散髪に行かせたと証言した。
二人目に証言に立ったのは事件当時輿掛の行きつけの理容店で輿掛を担当していた理容師で、葬儀の時の写真を見て髪型は角刈りで長い部分でも1センチメートル以下であると証言した上で、人の髪は1か月に約1センチメートル伸びること、事件前に輿掛はおおむね月に1度来店してパンチパーマをかけていたこと、事件後の1981年（昭和56年）7月11日に撮影された輿掛の髪型もパンチパーマであることなどを証言した。
最後に証言した大分県理容美容職業訓練協会の副会長も、葬儀の時の輿掛の髪型は角刈りで長くても1センチメートル、人の髪は1か月に約9ミリメートルから1センチメートル伸びるとし、パンチパーマをかけた髪は長くても5センチメートルであり、事件後の輿掛の写真は幾分伸びているが5から8センチメートルの長さであり、またパンチパーマは時間の経過とともに緩むことはあってもストレートになることはないと証言した。
これらの証言から、輿掛の父の葬儀から事件当日までは約10か月であり、その間一度も散髪をしなかったとしても11から12センチメートルにしかならず、また、事件当時の輿掛はパンチパーマでどんなに伸びていたとしても10センチメートルを超えることはないことから、DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする15.6センチメートルの毛髪は輿掛のものではありえないことが立証された。

保釈
DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪が輿掛のものではありえないことが明らかになった第23回公判直後の1994年（平成6年）7月7日、弁護団は福岡高裁に対して輿掛の保釈を請求した。
保釈請求書では、輿掛の身柄拘束が12年6か月に及んでいること、逮捕や一審有罪の決め手となった科警研の毛髪鑑定はすでに「科学の名に値しない」と否定されたこと、検察側の立証は終了しており罪証隠滅の恐れはないこと、輿掛は潔白を主張する場として公判に積極的に関わっており、また、無罪を確信しているため逃亡の恐れも全くないことなどを理由として挙げた。

7月11日、福岡高裁第一刑事部は保釈許可を決定。
これに対して検察側は、一審で無期懲役が言い渡された重大事件であること、控訴審での審理でも輿掛を犯人とする証拠が増大しており罪証隠滅の恐れもあること、一審・控訴審の審理経過からして勾留が不当に長期にわたっているとは言えないことなどから、保釈許可決定には裁量権の逸脱があり違法として直ちに異議を申し立て、同高裁第二刑事部で審理されることになった。
弁護側は、一審の審理の長期化は検察側の大量の補充立証が原因であり、控訴審の審理の長期化も裁判所の職権でDNA鑑定を採用したことによるもので、輿掛には何らの責任もないのであるから長期の勾留を甘受すべきいわれはないと反論した。

8月1日9時50分、福岡高裁第二刑事部は検察の異議申立の棄却を決定。
決定では、そもそも犯人と輿掛を結び付ける直接証拠自体が乏しい上に検察側の立証はすでに終了しており現在争いになっている13年余り前の輿掛の髪の長さについて罪証隠滅は考えにくいとし、弁護人全員の身柄引き受け書が提出されており輿掛にしてみれば簡単には出せない300万円が保証金とされているとして逃亡の恐れも薄いとし、12年6か月以上拘束が続いていることも考慮すると、保釈許可は裁量権を逸脱して違法とは言えないとした。
検察は特別抗告を断念し、輿掛は同日保釈された。

殺人事件で一審で無期懲役判決を受けた被告人が保釈されるのは日本ではきわめて稀である。
当日の夕刊は、この異例の保釈を大きく取り上げた。
その日の夕方に大分に戻った輿掛は、18時から大分県労働福祉会館で開催された「保釈歓迎・完全無罪をめざす集会」に参加した。
会場には、急な呼びかけにもかかわらず350名の支援者が集まった。

「破綻」

1994年（平成6年）11月16日、第24回公判で病気入院中の金澤裁判長から永松昭次郎裁判長に交代し、12月19日の第25回公判では、再度原田助教授を呼び、尋問が行われた。
弁護側は、前回の尋問での原田助教授の「1塩基でも違えば他人」という証言を前提に、実際の鑑定におけるDNA型の判定方法を中心に質した。
三澤教授の鑑定方法は、試料からACTP2と呼ばれるGAAAの4塩基の繰り返しからなるマイクロサテライトを抽出し、PCR法で増幅して電気泳動にかけ、その移動距離で塩基数を計測するというものであったが、電気泳動はその時々の条件によって結果が異なるため、100塩基単位のラダーマーカーと呼ばれる既知の塩基数の試料を同時に電気泳動にかけることで、それとの比較から対象試料の塩基数を計算して求める。
原田助教授によれば、電気泳動の結果を撮影したX線フィルムを拡大コピーしたものにトレーシングペーパーをあて、泳動結果を示すバンドの中心に鉛筆で線を引いて泳動距離を測定したということであった。
1塩基の違いは、元のX線フィルムで約0.33ミリメートル、拡大したもので約0.5ミリメートルにあたる。
しかし、輿掛の血液のDNAのバンドの幅は約8ミリメートル（24塩基分）、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のバンドの幅は約2ミリメートル（6塩基分）あった。
原田助教授らの測定方法は、それぞれのバンドのだいたい真ん中と思われるあたりに目測で線を引いて、その距離を1ミリメートル単位の目盛の普通の定規で測るというものであった。
このやり方では、それぞれのバンドのどこに線を引くかで数塩基程度の誤差は容易に生じうるし、引かれた線も基準の線と平行ではなく、どこを測るかによって計測結果が変わってしまう。
実際、鑑定書の元となったデータには、輿掛の血液と輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪の各バンドをそれぞれ3回測った測定データがあったが、同じバンドを測ったはずのその値は、測定の都度異なっていた。
弁護団は、1塩基単位で正確な計測が求められるにもかかわらずこのような測定技術しか持っていなかったことから、「本鑑定は破綻しているのではないか」と追及した。
これに対して原田助教授は、「当時としては、できる限りの技術を使った」としつつも、「今の研究成果からみると、未熟」で、「明らかに先生のおっしゃるとおり」「破綻していると言っても差し支えない」と答えた。
その瞬間、傍聴席からはどよめきが上がり、裁判官は驚いた表情を浮かべた。
さらに、弁護側は「同一の電気泳動パターンが検出された」として鑑定書に添付された電気泳動写真について追及した。
輿掛の血液のDNAバンドがレーン1に、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のDNAバンドがレーン2にあり、同じ位置にバンドが現れているように見える。
弁護団が鑑定書を入手した際に、鑑定書を渡して意見を求めた新潟大学の山内春夫教授は「被告人のバンドと現場遺留毛髪のバンドは同一であるように見える」と言い、九州大学の柳川教授も「鑑定書にミスが多いことをいくら強調しても、実験データが崩れない限り三澤鑑定を否定できない」という感想を述べていたものである。
しかし、鑑定書の後から提出された元々のX線フィルムを確認すると、これは別々の機会に電気泳動にかけられたもののX線フィルムを合成したもので、それぞれの電気泳動ではラダーマーカーの泳動距離自体が異なっており本来比較できるようなものではなかった。
弁護団は「合成したことはどこにも書いていない」「同一の機会に行われた電気泳動の写真であると誤解するのではないか」と追及したが、原田助教授は、「あくまでわかりやすくするために参考として付けただけ」として電気泳動写真は「何の測定データにも根拠にもなっていない」と答えた。
そして、最後に、弁護側から再度「類似」の意味を問われた原田助教授は、ひょっとしたら同じかもしれないし違うかもしれないという意味であると答えた。
原田助教授の尋問が終わると、永松裁判長は弁護団と検察を別室に呼び、弁護側が請求していた傷についてと検察側が請求していた毛髪についての証人申請を取り下げるよう求めた。
弁護側・検察側ともにこれを受け入れ、この日の公判をもって控訴審の証拠調べを終えた。

最終弁論

1995年（平成7年）2月24日、第26回公判が開かれ、13時30分に弁護側の最終弁論が始まった。
弁論は「本件事件の特徴と真犯人像」から始まり、捜査段階や第一審での輿掛の不利益供述の任意性と信用性、102号室の住民の水音に関する証言の信用性、輿掛の身体にあった傷の評価、科警研の毛髪鑑定、三澤教授によるDNA鑑定の証拠能力や信用性などについて、安東・徳田・千野・鈴木・荷宮・古田・岡村邦彦の各弁護士が順に弁護側の主張を述べていった。

弁論の結びとなる「結語」は徳田弁護士が行った。
徳田弁護士は、第一審から弁護についた者として自ら担当を願い出て、誰にも相談することなく一人で「結語」を書き上げていた。
その内容は、自らの第一審での弁護活動を痛烈に自己批判するものであった。
　原審第一回公判が開かれたのは、昭和五十七年四月二十六日である。既に十三年の歳月が経過した。
　その第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。
「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」
　本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋をもって読み返したことであろうか。
　これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面した時から始まった。
　ここには、新聞報道で全面自供と伝えられていたその「かけら」も認められなかった。「犯人は自分に違いない」との結論だけが強調され、何一つとして具体的な犯行状況が語られていないばかりか、何の脈絡もなく突然「気がついたら二〇三号室にいた」との供述に始まる調書は、私達の理解をはるかに超えていた。
　被告人がその不利益供述に至る過程で、三日間以上にわたって絶食状態であったことを私達は知らなかった。
　その故に、その被告人に対し連日十時間以上の取調べがなされたことの過酷さを私達は理解できていなかった。
　指紋が犯行現場に遺留されていた等という虚偽の事実が突きつけられ、「科学の名に値しない」毛髪鑑定結果の告知とともに被告人をがんじがらめに呪縛していたことを私達は予想だにしていなかった。
　母に合わせてくれと泣き崩れる被告人に対し、卑劣にもその「特別措置」の代償として、このような不利益供述が強制されたのだということを私達は知るよしもなかった。
　弁護人として、恥ずべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。
　その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠り、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることに気付かせる契機を与えることができなかった。
　被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。原審第十二回公判における被告人に対する強引な誘導尋問を含めて、私達は、自らの弁護人としての基本姿勢の誤りを何度か責め苛んできた。
　本弁論における被告人の不利益供述の任意性に関する分析は、その苦渋と悔悟と謝罪の所産である。
— みどり荘事件弁護団　「控訴審弁論要旨」

そして、裁判所に対して、科警研の毛髪鑑定や三澤教授によるDNA鑑定といった「科学を装った非科学的鑑定」を厳しく明確に批判した上での完全無罪判決を求めて弁論を締めくくった。
徳田弁護士が弁論を終えると、2時間にわたる弁護側の最終弁論を静かに聞いていた傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。
永松裁判長は、「静かにしなさい」と拍手を制止した。
そして、「こんな立派な弁論に対して失礼でしょう」と付け加えた。
続いて検察側の最終弁論が行われたが、傍聴していたノンフィクション作家の小林道雄によれば、「弁護側が論破した問題点に対して、聞くべき反論はいささかもなかった」。
この公判で控訴審は結審し、判決公判は6月30日と指定された。

控訴審判決

1995年（平成7年）6月30日、福岡高裁で判決公判となる控訴審第27回公判が行われた。
14時に開廷し、永松裁判長が「主文。原判決を破棄する。被告人は無罪」と逆転無罪となる判決を読み上げると、満席の傍聴席から大きなどよめきと拍手、そして被告人の長姉の咽び泣く声が法廷に響き渡った。
永松裁判長は「静かに」とそれらを制した後、判決理由を朗読した。
判決理由では、輿掛の首と手の傷についての検討から始め、争点となった点について以下の通り次々と弁護側の主張を認めていった。

首・左手甲の傷
まず、輿掛の頚部の傷について、一審判決では「被告人の傷の状態を最も慎重に綿密に観察しているのは、本件犯行直後被告人から事情聴取をしたT警察官であるとして、Tの証言を高く評価して」いたが、控訴審判決では、「Tは、被告人の傷を観察してから一年以上も経過した後に証言している」こと、「観察当時に損傷状態を写真に撮影するとか、損傷状態の見聞結果を詳細に図示するなど、確たる記録を残す措置をとっておらず、主として本人の記憶のみに基づいて証言していること」、「証言時より記憶が新しいはずの捜査段階においては、検察官に対し、右のようには供述せず、頚部の細長い傷はみみずばれみたいな状態であった旨供述していること」などから、「T証言の信用性については疑問の余地がある」とした。
また、牧角名誉教授の鑑定によれば、輿掛の頚部の傷は発赤反応であり「発赤反応は皮膚刺激から遅くとも二時間から三時間の経過によって消褪する」のであるから、輿掛の頚部の傷は「むしろ、本件犯行の犯行時間帯に生成されたものではない可能性の方が大きい」などとし、「虫に刺されて引っ掻いたかもしれないという被告人の弁解も、一概には否定できない」として、「被告人の頚部の損傷は本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が高いとした原判決の判断は、疑問であり、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。
また、左手甲の傷についても、一審判決では、ビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が高いとする鑑定結果から、「ビールラックを移動中に傷つけたかもしれない」という輿掛の弁解を排して被害者の抵抗によって生じた可能性が高いと判断したが、控訴審判決では、「縦横とも二ないし三ミリメートルのごま粒ほどの小さい傷であることを考慮すると、日常生活の中で気付かないうちに負傷することもあり得ないわけではなく」、「被告人の弁解は、ビールラックで打った時にできたのではないかという推測の説明であり、ビールラックで傷つけたという記憶に基づいたものではない」とした上で、「古いビールラックになると、その表面にささくれや凹凸が生じていることもあり、その部分と左手甲との接触によって負傷する可能性も全くないとはいえない」ことや、鑑定も「被告人が負傷したかもしれないという時に扱ったビールラックを使用せず、他のビールラックを使用して実施した」ものであることなどから、「本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が強いとした原判決の判断は、根拠に乏しく、是認することができない」として、これも一審判決の判断を退けた。

毛髪鑑定
事件現場から採取された陰毛について、一審判決は、科警研の毛髪鑑定を「信用性があると評価した上、被告人の陰毛である可能性の高い陰毛が二〇三号室に落ちていたと判断し、被告人と本件犯行とを結びつける重要な状況証拠の一つとしている」が、控訴審判決では、控訴審で提出された複数の文献は「いずれも、体毛鑑定によって個人識別ができるとすることには消極的」であり、科警研の鑑定人の一人も形態学的特徴や分析化学的特徴から断定的な識別は困難であることを認めていることから、科警研の毛髪鑑定では「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは『類似する』という程度の域を出ない」とし、「体毛鑑定は、個人識別の方法として絶対確実とはいえず」「体毛鑑定の結果を重要な決め手とすることは危険であって許されない」と断じた。

DNA鑑定
事件現場から採取された毛髪から輿掛と同一のDNA型が検出されたとする三澤教授によるDNA鑑定については、「長さ一五・六センチメートルもあるような本件遺留毛髪が被告人の毛髪であるとは到底考えられず」、実際の鑑定にあたった原田助教授も「現時点のレベルからみると、三澤鑑定書の鑑定結果は破綻していると言っても差し支えない旨自ら認めて」おり、「三澤鑑定書には、その信用性を是認することができず」「三澤鑑定書をもって、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠とすることはできないと言わざるを得ない」として排した。

「自白」の任意性・信用性
捜査段階での不利益供述について、一審判決では、捜査員が母親に会わせることと引き換えになされた「約束による自供」にあたるとしたものの、任意性・信用性には影響がないとし、「倒れている被害者の側に立っていた」などの供述を事実と認定して、輿掛が犯人である決め手の一つとしていた。
控訴審判決では、まず、全体的な供述内容を、「被告人が被害者を殺したことは間違いないとしながら、犯行の動機はもとより、二〇三号室への侵入経路、強姦及び殺人の犯罪行為そのものに関しては、全く記憶がないという不自然なものである」と指摘し、一方で「倒れている被害者の状況に関する供述内容はあたかも死体発見当時の被害者の状況を撮影した実況見分調書の写真を見ながら供述しているかのようである。一読して、被告人の実体験に基づく供述であるか甚だ疑問である」。
また、「捜査官が、被告人が母親らの身の上を心配し、会いたがっていることを利用して、母親らと面会させる約束をし、実際に面会させたことの代償として不利益供述がなされたことは疑う余地がない」と認定し、「任意性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。
さらに、「捜査官が、被告人に対し、『お前の体毛が二〇三号室にあったという鑑定が出ている。』と決めつけて追及したこと」を「体毛鑑定の結果も、単に本件現場に遺留されていた体毛が被告人の体毛に類似するというにすぎず、被告人以外の者の体毛である可能性もあるわけであるから、本件体毛鑑定の結果をもって、被告人の体毛が二〇三号室にあったと決めつけて追及することは許されない」と捜査手法を厳しく批判し、「取り調べにおいて、被告人が心理的強制を受け、その結果虚偽の不利益供述を誘発された恐れが濃厚であるから、その任意性には疑いがあると言わざるを得ない」として輿掛の不利益供述の任意性を否定した。

不利益供述の信用性について、一審判決は、102号室の住民の水音に関する証言が輿掛の「二〇三号室から二〇二号室に戻り、風呂場で足を洗い、それから顔を洗った」とする供述と一致することなどから輿掛の供述の信用性を認めたが、控訴審判決では102号室の住民の証言について「一方において、二階の騒ぎは、男の人が女の人を追い掛け回しているような感じの音であった旨、微に入り細に入った情景を証言していること、他方において、前記のとおり、二階で水を流す音は、風呂場の音よりトイレの音の方がはっきり分かるとしながら、二〇三号室の騒ぎがおさまった直後二〇五号室でトイレの水を流しているのに、その水音には気づかなかった旨、不自然な証言をもしていることを併せ考えると」「（102号室の住民）は、事件の内容を知った上で、想像をも交えながら、あたかもすべてを経験して知っているかのように証言しているのではないかという疑いが濃厚であり、ひいては、全体的に真実を証言しているのか疑わしい点が多いといわざるを得ない」などとして102号室の住民の証言自体の信用性を否定し、この証言をもとに「被告人の供述に信用性を認めることはできないものと言わざるを得ない」との判断を下した。

そして、一審での不利益供述の維持については、「発熱して約三日間も食事がとれない状況下において深夜まで取調べがなされ、被告人の体毛が被害者方にあったと執拗に追及されて、被告人の自閉的内向的性格から心的破綻に陥り、記憶がないのは飲酒の結果であるかもしれないと考えるようになり、ついには『被害者方にいた。』と思い込むようになって、その旨の不利益供述をするに至ったものである」と確認した上で、「原審公判廷において不利益供述をするまでの間、被告人と弁護人との間に十分な打合せがなされなかったこと、そのため、不利益供述をするに至った動機、原因が前記のとおりであったにもかかわらず、これに対する吟味が十分にはなされず、その思い込みから解放される手段も講じられず、その機会もなかったこと、そして、被告人にとっては、弁護人らより捜査官であるTらの方が自分のために便宜を図ってくれているという印象が強かったことが認められるので、被告人としては、捜査段階と原審公判廷との間に質的な差異がなく、公判廷における供述であるからといって、その供述の信用性に影響を与えるほどの状況の変化はなかったものと認められる」「また、弁護人においても、被害者方にあった体毛が被告人に由来するかどうか、証拠に対する検討が必ずしも十分には行われていなかったこともあって、有罪ではないかとの心証を抱いており、そのため、原審第一二回公判期日においては、誘導によって、被告人の原審第一回及び第二回公判期日における不利益供述を肯定する旨の供述を引き出しているほどである」として、「公判廷における不利益供述であるからといって」「安易にその信用性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。
これらから、控訴審判決は、輿掛の不利益供述について「被告人が犯人であることの有力な決め手の一つであるとした原判決の判断は、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。

輿掛が物音などに気付かなかった点
控訴審判決は、近隣住民が聞いている203号室からの物音などに気づかなかったと話していたことが輿掛が犯人と疑われるきっかけの一つとなったとし、この点についても考察した。
控訴審判決では、「二〇三号室の近隣居住者らは、本件犯行当時の二〇三号室の物音や騒ぎに気づいているのであるから、隣室にいた被告人がこれに気づかなかったというのは、一応不自然なことのようにも思われる」としつつも、「被告人は、テレビの音量を大きくしたまま、うつらうつらしたり寝入ったりしていたというのであるから、そうであるとすれば、気づかなかったということも十分考えられるところである」とした。
また、輿掛が事件当夜23時前ころまで大音量でかけていたステレオの音を、近隣住民の多くが聞いているにもかかわらず102号室の住民はうたた寝していて気づかなかったと証言していることをあげ、「被告人が本件犯行当時二〇二号室にいながら二〇三号室の物音や騒ぎに気づかなかったとしても、このことをもって、被告人が犯人ではないかとの疑いを抱かせるほど不自然なこととは思われない」と判断した。
そして、控訴審判決は最後に「被告人が犯人でないことを示唆する事柄について」という章を立て、より踏み込んだ判断を下した。

被告人が犯人でないことを示唆する事柄について
近隣住民が「どうして」「教えて」という声を聞いていることや、「犯人は、深夜であるのに、二〇三号室に何らのいざこざもなしに入り得たようにうかがえる」ことから、「犯人は、被害者と親しく、かつ、信頼関係のある者ではなかろうかと強く推測される」と判示し、さらに、輿掛が警察官に「何しよるか」と声をかけたことや、この警察官や201号室の住民、新聞記者と言葉を交わした際も不審な様子はなく落ち着いた態度で対応していたことを、「強姦や殺人といった凶悪な犯罪を犯した直後の犯人の言動としては通常考え難い」とした。

控訴審判決は、単なる無罪判決にとどまらず別の真犯人の存在を示唆する完全無罪判決であった。
後に弁護団はこの判決を「望み得る最高の判決」と評した。
永松裁判長が判決言い渡しを終えると、法廷は再び大きな拍手と歓声に包まれた。
その中から、退廷しようとする永松裁判長の背中に向けて傍聴席からひときわ大きな声が上がった。
「裁判長! 私はあなたを尊敬します!」永松裁判長は一瞬その歩を止めたが、振り返ることなく法廷を後にした。

無罪判決後、福岡県弁護士会館で記者会見と報告集会が開かれた。
その後、輿掛と弁護団、支援者はすぐに大分に向かい、判決当日の19時30分から大分県労働福祉会館でも報告集会が行われた。
大分での報告集会には250名超が参加して、輿掛の完全無罪判決を祝った。

裁判後

時効成立
1995年（平成7年）6月30日の福岡高裁の無罪判決を受けて大分県警は、「裁判の当事者ではない」として記者会見は行わず、刑事部長が「捜査は適切に行われたと確信している」とする談話を発表した。
判決内容が警察の捜査を批判している点については、「詳しく判決文を読まないとわからない」とだけ述べた。

上告期限を翌日に控えた7月13日、福岡高等検察庁は上告を断念し、輿掛の無罪が確定した。

会見した福岡高検の次席検事は、捜査も起訴も理解できるとしながらも、「控訴審のように証拠評価されても仕方のない面もある。最高検とも協議した結果、記録の積み重ねで勝負する最高裁で二審判決を覆すのは、法律上不可能と判断した」と上告断念の理由を説明し、「争点となった輿掛さんの不利益供述（自白）が、不完全な形にとどまり、不明な点が多く、『自白』ととらえるべきではなかった。欲を言えばもっと完全な捜査をしてほしかった」と述べた。
検察がこのように警察を批判するのは異例である。
大分県警も無罪確定を受けて刑事部長がコメントを発表したが、「警察としては捜査を尽くした。現時点では捜査すべき事柄はないと考える」として再捜査は行わない意向を明らかにした上で、「二審無罪の判決を謙虚に受け止め、今後の捜査に生かしたい」と述べるにとどまった。
また、輿掛に対する謝罪の意思を問われると、「捜査は法律にのっとって行われたので、必要はないと考える。被害者のご家族には、精一杯捜査を行ったことをご理解いただきたい」と答えた。

12月6日、救援会の会員で大分県議会議員になっていた久原和弘が、県議会一般質問で大分県警本部長に対して輿掛や被害者家族への謝罪の意思の有無を問うた。
「高裁判決が厳しく指摘した杜撰かつ非科学的な捜査によって、輿掛さんは一生の一番輝かしい時期に鉄格子のなかに閉じ込められ、かけがえのない青春を無残にも奪われました。この間の本人と家族の苦労を思えば言葉もありません」「さらに、まだ時効まで一年近くあるというのに、警察当局は”県警としての捜査は尽くした。現時点で捜査すべき事柄はない“と述べています。かけがえのない我が子を無残にも奪われ、その無念の思いを、輿掛さんを犯人と信じ、憎むことでいやしてこられた被害者のご遺族のお気持ちを考えると、この談話には何とも言えぬやりきれなさを覚えます。この輿掛さんと被害者のご遺族に対しては、心からの謝罪と償いの意思表示が不可欠と思いますが、県警本部長のご見解をうかがいたい」と質す久原議員に対して、竹花豊本部長は、「適法かつ慎重にできる限りの捜査を行って検挙、送致した」と謝罪の必要はないとの考えを示し、報道を引用する形で、福岡高検次席検事も「捜査は適正で起訴も正しかったと、その談話の中で述べている」として、「高裁判決の内容については捜査機関として謙虚に受けとめ」「今後の捜査に生かしてまいりたい」と答弁した。

1996年（平成8年）6月28日0時、みどり荘事件は公訴時効を迎えた。
大分県警は「市民からの新しい情報提供はなかった」などとする刑事部長の談話を発表した。
これに対して輿掛は、「情報収集の努力をせずに、そういうことを言うのはおかしい」と批判した。
また、同志社大学教授の浅野健一も、「捜査当局は時効ぎりぎりまで精一杯の捜査を展開することで、公務員としての遺族への責任を果たすべき」と批判した。

被告人のその後
1995年（平成7年）8月3日、大分市内のホテルで「輿掛さんの完全無罪を祝い、新スタートを励ます会」が開催され、120名余りが参加した。
13年間を拘置所で過ごした輿掛は、太陽の下で体を動かして働きたいと自動車の運転免許を取得し、11月1日からは大分県特殊技能センターでフォークリフト・移動式クレーン・車両系建設機械など7つの特殊免許を取得して、1996年（平成8年）4月1日に大分市内の石材会社に就職した。

1999年（平成11年）、不況の影響で石材会社からリストラにあったが、その後は自らダンプカーを購入し、ダンプ運転手として働いた。
輿掛は、仕事のかたわらボランティア活動や労働組合運動にも積極的に関わった。
みどり荘事件をきっかけに大分県で始まった当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」、弁護団の弁護士が関わっていた労働組合「大分ふれあいユニオン」、「HIV患者を支える会」や「ハンセン病国家賠償訴訟を支える会」などで活動し、大分ふれあいユニオンでは書記次長、ハンセン病国家賠償訴訟を支える会では事務局長を務めた。

1996年（平成8年）5月26日、輿掛の社会復帰を見届けた救援会は総会を開き、当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」に発展させることを決めて解散した。
弁護団は、1997年（平成9年）に、みどり荘事件の弁護活動をまとめた『完全無罪へ13年の軌跡-みどり荘事件弁護の記録』を出版した。

評価・影響

裁判自体に対する評価

ノンフィクション作家の小林道雄は、著書の中で一審判決を評して「裁判官は法廷の雛壇に目を開けて座ってはいただろう。だが、その目ははたして覚めていたのかどうか」と述べて『夢遊裁判』と名付けた。
この言葉は、みどり荘事件の裁判を表す言葉として広く人口に膾炙した。

弁護団の安東弁護士は、控訴審判決を「望み得る最高の判決」と評価したが、小林は「私としてもそうは思う」としつつ、控訴審判決の中の二つの点は受け入れがたいとしている。

一点目は、控訴審判決が輿掛の不利益供述の任意性を否定する論拠の一つとして、輿掛が「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向がある」と指摘した点である。
小林によれば、代用監獄で厳しい取り調べが行われれば誰でも容易に虚偽自白に追い込まれかねないのであって輿掛の心理特性が原因ではないとし、また、控訴審判決が採用した輿掛の心的特性は起訴前の精神鑑定が「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」として認定したものであり不当なものであると指摘している。
この点については、心理学者の浜田寿美男も「真っ白無罪の『最高の判決』に一点、汚点が染みているよう」と述べている。

二点目は、一審での輿掛の不利益供述の維持について、輿掛と弁護団の意思疎通が不十分で「不利益供述に対する吟味が十分になされず、その思い込みから解放される手段も講じられ」なかったとした点である。
弁護団が控訴審で痛烈な自己批判を展開した成果ではあっても、一審の無期懲役判決は「あまりにも愚かな一審裁判官の質にあった」のであって、弁護団の責任であったかのような表現には抵抗があるとしている。
また、久留米大学准教授の森尾亮らは、一審判決の事実認定は警察や検察の立てたストーリーを事実に基づかずに「あり得べからざることではない」と単に主観的に同意しただけのものに過ぎないと批判し、一審判決が有罪の根拠とした事実認定を否定した控訴審判決をすぐれた判決として高く評価している。
ただし、控訴審がその判決を下すまでに6年3か月を要していること、203号室に輿掛の指紋がなかったことに触れていないことを控訴審の問題点として指摘している。

DNA鑑定に関する批判
みどり荘事件は、裁判所の職権でDNA鑑定が実施された日本で最初の裁判となった。
鑑定人である三澤教授らは、10年以上前の試料の分析方法としてDNA鑑定の中でも最先端といえたマイクロサテライトを用いたACTP2法を採用した。
それまで日本ではACTP2法によるDNA鑑定が行われたことはなく、マイクロサテライトを用いたDNA鑑定自体が日本では初めてであった。
この鑑定は控訴審判決で信用性を否定されたが、弁護団などは、それ以前の問題として、こうした発展途上の技術を刑事鑑定に用いたことを批判している。
すなわち、被告人の運命を左右する刑事鑑定においては、仮説と実験を繰り返す科学研究とは違って間違いは絶対に許されないのであるから、鑑定の基礎となる理論が専門家の間で広く承認されており、かつ、鑑定手段も技術的に確立されたものである必要があり、未成熟な先進的な技術を採用することは許されないとする批判である。
この点について一橋大学の村井敏邦教授は、「刑事裁判は実験場ではない。むしろ、そのような実験場とはもっともほど遠いところにあるべきものであり、最も保守的な場であることにこそ意味があるとさえいえる」と述べている。
弁護団は、三澤教授らの鑑定に対する姿勢を「科学研究と刑事鑑定の違いをわきまえないもの」「犯罪の成否を左右するという、鑑定人としての社会的責任を自覚してなかった」と批判している。
また、みどり荘事件では、弁護団が鑑定人に鑑定資料を提出させることで、鑑定の経過や手法を検証することができた。
もしそうでなかったなら、DNA鑑定の結果をもって科学の名のもとに冤罪が継続する可能性があった。
このことから、こうした先進的な科学技術を刑事裁判で採用する際には、鑑定結果を盲信するのではなく、具体的な鑑定経過の資料を開示させて、裁判に関わる法律家が信頼性を自ら判断できるようにすることが必要であると指摘されている。

報道に対する批判

大分合同新聞本社（1995年竣工）
1981年（昭和56年）6月30日に輿掛が2回目の事情聴取を受けて以降、マスメディアは輿掛を重要参考人として犯人視する報道を続けた。
支援者らによれば、こうした報道は地元紙の大分合同新聞が最もひどかったという。
大分合同新聞は、6月30日の夕刊で「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」という見出しで「Aに対する二十九日までの事情聴取の中でも、Aの主張するアリバイには確固とした裏付けがなく、捜査本部ではAの追及に全力を挙げている」と報じたのに始まり、7月9日には「捜査難航-乏しい物証-交友関係者はシロ?」として「捜査本部では、すでに重要参考人として事情を訊いた大分市内の若い会社員を依然マークして身辺捜査を続ける」とする記事を載せ、7月30日には「捜査に焦りの色も」と題して「捜査開始当初から捜査本部が強い疑惑を捨てていない人物が大分市内の会社員Aだ」とし、隣室にいながら物音を聞いていないと主張していることや新しい傷があったことなど「多くの不審点が浮かんでおり、身辺捜査を通じて出てきた関連情報からも疑惑は消えていない」と報じた。
さらに、9月27日には「詰めの捜査へ-消去法で絞り込む」という見出しで捜査本部長である藤波重喜大分署長のインタビューを載せ、この中で輿掛について聞かれた藤波署長は、「特定の人物については逮捕もしていないのにどうこう言うことはできない」としつつも「これまでリストアップした中に犯人が必ずいる」と語っている。
逮捕当日の1982年（昭和57年）1月14日には、大分合同新聞の朝刊に「”隣室の男”逮捕へ」の大見出しの下、「女子短大生殺人事件　体毛、血液型が一致　大分県警が断定」「事件直後、新しい傷」に続き、小さく「本人は否認のまま」という見出しが紙面に踊った。
記事では、202号室で他の女性と同棲していた「大分市内の会社員A」の逮捕令状を請求と報じていた。
その日の夕刊では、手錠をかけられて連行される輿掛の写真を大きく載せて「ホテル従業員逮捕」「執念……7カ月ぶりに-ムッツリした犯人・輿掛」と報じ、翌15日の朝刊では、「けさから本格追及-短大生殺しの輿掛　いぜん否認続ける」の見出しで「是が非でも輿掛を自供に追い込む構え」「輿掛はふだんはおとなしいが、酒を飲むと狂暴になるタイプ」などと報じた。
そして、1月22日の朝刊では、輿掛の「自供」を発表する藤波署長の写真を載せ、「輿掛やっと自供」「『私に間違いない　恋人とけんか……カッと』」[78]「良心ゆさぶる説得で……」の見出しの下、「事件直後の捜査本部による数回の取調べに対して、ふてぶてしいほどに犯行を否認し続けた輿掛も、捜査本部の長期にわたる執念の捜査によって得た体毛の鑑定結果やその他多くの状況証拠の前に屈した」「二一日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と犯行を全面的に自供した」「この自供により、難事件といわれた女子短大生殺人事件は七カ月ぶりに一気に全面解決へ向かう」と報じた。
また、犯行の動機として、輿掛が「恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。
そこへ（被害者名）が帰ってきたので……」と供述しているとされたが、そのような供述調書は存在しない。
逮捕までは匿名ではあったが、狭い地域社会では誰のことかは周知のことであり、輿掛はもとより親類までが報道被害を受けた。
輿掛によれば、報道後、母親はパートや銭湯にも行きづらくなり、逮捕後は長姉の元に引き取られたが、その姉たちも嫁ぎ先で肩身の狭い思いをし、うち一人は離婚している。
珍しい姓であったため「輿掛」の名前では仕事につけず、嫌がらせ電話が絶えないため電話番号を変えて電話帳にも載せないようにしたという。
当時のマスコミのこうした報道姿勢に対して、弁護団は、推定無罪の原則を尊重する姿勢に欠け、自白偏重の捜査など権力の行き過ぎをチェックするマスコミの使命は全く見いだせないとし、これらの記事を読んだ近隣住民などの証言や裁判官の心証に大きな影響を与えることになったと批判している。
ノンフィクション作家の小林道雄も、こうした警察発表を垂れ流すだけの報道は裁判官に予断を生じさせることになり、起訴状一本主義は有名無実と化すとし、「輿掛さんを犯人にしたのは、警察・検察・一審裁判所の三者であり、それに加えてマスコミが輿掛さんを抹殺しようとした。この四者すべてが謝罪していない」「この四者の中でマスコミはいち早く謝罪し、他の三者にも謝罪するように迫るべきだ」と主張している。

1995年（平成7年）6月30日の無罪判決を受けて、大分合同新聞は翌日の朝刊で「DNA鑑定の信用性否定」「『別に真犯人』を示唆」と報じ、「『科学鑑定』に警鐘　自白偏重にも反省促す」とする解説記事を掲載した。
他社も、「現代型冤罪」「自白偏重主義」「危険な予断捜査」「真犯人像を示す」などと警察を批判する記事を掲載した。
西日本新聞は、時効成立前日の1996年（平成8年）6月27日から5日間、当時の報道姿勢に対する自戒を込めた「時効　それぞれの15年」という記事を連載した。
しかし、当時の報道について輿掛に謝罪した報道機関はなかった。
みどり荘事件の報道を検証した同志社大学教授の浅野健一らによるアンケートでは、報道各社は輿掛に謝罪しない理由として「謝罪の要求を受けていない」などとした。
しかし、輿掛や弁護団などは、「自分に非があるとわかっているのなら、こちらから謝罪の要求をしなくとも自主的に謝るのが常識だ」として、自発的謝罪を求めている。
また、大分合同新聞は「輿掛さん本人がいったん自白した」ことを謝罪しない理由の一つとしたが、これに対して浅野教授らは、公判記録から輿掛の供述が「自白」とは呼べないことは明白であると批判している。
弁護団は、報道機関に対して、輿掛が無実であったことを根気強く報道し、読者の誤解を解くよう努力する責任があると主張している。
浅野教授らも、地方の事件では地元のメディアの影響力が大きくそれだけ責任も重いとして、大分合同新聞が率先して謝罪と検証を行って輿掛や家族の社会復帰を支援するのが地元メディアの役割であると提言している。
浅野教授は、著書の中で「みどり荘事件報道の検証を怠り、報道改革に努力しないマスコミ人はジャーナリストの名に値しない」と述べている。

当番弁護士制度の創設
徳田弁護士は、みどり荘事件での起訴前からの弁護活動に大きな悔いを抱いていた。
それは、「もし、逮捕直後からついていて連日の接見を必ず確保していたら、あんな自白は絶対になかった」「輿掛さんとの意思疎通がうまく行かず、報道に影響されて、弁護団も輿掛さんが現場にいたのは間違いないと思ってしまった。逮捕直後の弁護活動がいかに重要かを再認識させられた」という反省であった。
このみどり荘事件の反省に立って、徳田弁護士は「起訴前弁護はあらゆるケースに必要ですが、否認事件には特に徹底的に保障されなければならない」「なんとしてでも自分たちが先頭に立って当番弁護士制度をやり抜かなければ」との決意のもと当番弁護士制度の発足に奔走し、1990年（平成2年）9月14日、大分県弁護士会が日本で初めての当番弁護士制度「起訴前弁護人推薦制度」をスタートさせた。

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      <content:encoded><![CDATA[
<div>1981年06月27日土曜日　後編<br></div>みどり荘事件（みどりそうじけん）は、1981年（昭和56年）6月、大分県大分市で発生した強姦・殺人事件である。<br />大分女子短大生殺人事件とも呼ばれる。<br /><br />隣室の男性が逮捕・起訴され、第一審で無期懲役の有罪判決が言い渡されたものの、控訴審で逆転無罪が言い渡され確定した。<br />控訴審の判決理由では被告人以外の真犯人の存在が示唆されたが、1996年（平成8年）6月28日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。<br /><br />日本で初めて裁判所の職権でDNA鑑定が採用された事件、当番弁護士制度創設のきっかけになった事件、また、被疑者や家族に対する報道被害事件としても知られている。<a name="more"></a><br /><br /><strong><span style="font-size:large;">控訴審</span></strong><br /><br /><strong>弁護団の拡充</strong><br />一審判決後の記者会見を終えた古田・徳田両弁護士に、安東正美弁護士が「よかったら私も手伝わせてほしい」と声をかけた。<br />安東弁護士は、かつて大分合同法律事務所に所属していたことから古田弁護士の先輩にあたり、また、徳田弁護士とも以前ともに訴訟にあたった経験があり旧知の間柄であった。<br />敗訴に落ち込んでいた両弁護士は、大喜びでこの申し入れを受け入れた。<br />裁判資料を取り寄せた安東弁護士は、読み込むほどに一審判決が不当なものであると確信していった。<br />3弁護士はさらに多くの弁護士に弁護団への参加を呼び掛けていくことで一致したが、私選弁護人とはいえ報酬は全く期待できないこともあり、また、弁護団の団結を重視したことから、気心の知れた弁護士に一人ひとり裁判資料を手渡して声をかける形をとった。<br />大分合同法律事務所の所属弁護士やOB、一緒に仕事をしたことのある弁護士を中心に声を掛けていき、控訴趣意書提出までに柴田圭一・西山巌両弁護士が加わって5名の弁護団となり、さらに岡村正淳・鈴木宗嚴・千野博之、福岡の岩田務各弁護士が参加して、控訴審第3回公判（1990年（平成2年）9月17日）ころまでに9名となった。<br />その後も荷宮由信・岡村邦彦・須賀陽二・工藤隆各弁護士が参加して、最終的にみどり荘事件の弁護団は13名となっている。<br />弁護団は一審判決を再検討し、自白の任意性、102号室の住民の証言、輿掛の身体に咬傷がなかったこと、輿掛の衣類から被害者の血液の跡が見つかっていないこと、輿掛の首や左手甲の傷、毛髪鑑定の信用性などについての一審判決の判断を批判し、さらに、犯行時間に205号室の住民が203号室から「神様、お許しください」という声を聞いているが輿掛にはそうした信仰はないこと、『荒鷲の要塞』の酒場の場面が輿掛のアリバイを証明していることなどを、輿掛が犯人ではないことを示す証拠として指摘する控訴趣意書をまとめた。<br />最終的に200頁に及んだ控訴趣意書は、提出期限の前日に完成し、提出期限の1989年（平成元年）11月30日に、福岡高裁に直接持参して提出された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">科警研毛髪鑑定批判</span></strong><br /><strong>再鑑定依頼</strong><br />福岡高裁における控訴審第1回公判は、1990年（平成2年）3月14日に開かれた。<br />控訴審で弁護側は、「自白」の任意性・信用性、科警研の毛髪鑑定、輿掛の首・左手甲の傷の3点を中心に一審判決を覆す立証を試みた。<br />5月28日の控訴審第2回公判では早くも被告人質問を行い、同年12月17日の控訴審第5回公判までをかけて「自白」当時の取り調べ状況や家族との面会と引き換えに「自白」に応じた過程などを質問して、捜査の違法性と「自白」が強要されたものであることを明らかにしていった。<br /><br />「自白」の任意性の審理と並行して、弁護団は科警研の毛髪鑑定の信用性の問題に取り組んだ。<br />同年7月28日、岩田弁護士から弁護団に、福井女子中学生殺人事件でも吉村悟弁護士が中心になって科警研の毛髪鑑定の信用性を争っているという情報がもたらされた。<br />両事件の毛髪鑑定は、鑑定時期こそ6年の開きがあったものの、鑑定人も同じで、鑑定手法も全く同じ「形態学的検査」「血液型検査」「分析化学的検査」の3つからなるものであった。<br />弁護団は早速吉村弁護士を知っていた西山弁護士を通じて資料を取り寄せ、たまたま9月21日に大分地裁に出廷する予定があった吉村弁護士を招いて勉強会を行った。<br />吉村弁護士は、毛髪鑑定に関する国内外の大量の文献を示し、形態学的検査で個人識別が可能と考えているのは科警研だけであること、分析化学的検査では同一人でもデータの変動が大きく（個人内変動性）他人間でもあまり違いがないこと（個人間恒常性）を指摘して、科警研の毛髪鑑定が信頼できないものであると説明した。<br />同年11月16日・17日と翌1991年（平成3年）1月7日の弁護団会議でも吉村弁護士から直接助言を受け、吉村弁護士の「弁護側として科警研の鑑定結果を覆す再鑑定を行ったほうが良い」という助言をもとに、弁護団は岩田弁護士が作成した「元素分析批判」「形態学的検査批判」という科警研の毛髪鑑定の矛盾点を指摘する2つの文書を手に再鑑定を依頼する専門家を探していった。<br />とはいえ、科警研が鑑定した毛髪は鑑定の過程で全量を費消しており、再鑑定は科警研の鑑定データを基に分析し直すという形をとるよりほかなかった。<br /><br />1990年（平成2年）11月19日、岩田弁護士は九州大学医学部法医学教室の永田武明教授を訪問し、科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して意見を求めた。<br />永田教授は「元素分析批判の指摘は正しいと思う」と述べたが、「自分は毒物を専門とする法医学者であり、この内容であれば科学評論家か数理統計学者がふさわしい」という意見を示して再鑑定については固辞した。<br />岩田弁護士はその足で大学の同級生であった九州大学工学部の香田徹助教授を訪ねて適任者を尋ねたところ、数理統計学の世界的権威として九州大学理学部の柳川堯助教授を紹介された。<br />そのころ、徳田弁護士も別ルートで再鑑定を引き受けてくれる専門家をあたっていた。<br />徳田弁護士は、11月20日、中学校の同級生で野球部ではバッテリーを組んだ間柄の九州大学工学部の立居場光生教授を訪ね、やはり科警研の鑑定書と「元素分析批判」を持参して適任者を尋ねると、同じく柳川助教授が適任であろうとの返答を得た。<br /><br />同年11月26日、徳田弁護士と岩田弁護士は、科警研の鑑定書と「元素分析批判」「形態学的検査批判」を持って柳川助教授を訪ねて意見を求めた。<br />柳川助教授は、その場で科警研の毛髪鑑定の杜撰さを指摘し、12月には「統計的鑑定法」、翌1991年（平成3年）1月には「元素分析スペクトルパターンによる鑑定批判」と題する意見書を作成して弁護団に送付した。<br />弁護団は意を強くし、1991年（平成3年）1月31日の第6回公判後に古田・徳田・安東・鈴木・西山・岩田・千野の7弁護士が柳川助教授に再鑑定を依頼した。<br />柳川助教授は意見書は書いても再鑑定までするつもりはなかったようであったが、弁護団の懇願を受けて再鑑定を受諾した。<br /><br />これとは別に、第6回公判で弁護団は被害者の首に巻かれたオーバーオールに付着していた体毛の鑑定を要求し、鑑定の結果、オーバーオールに付いていた体毛は血液型O型のものであることが判明した。<br />さらに、遺体の司法解剖の鑑定書に何かが剥がされた形跡を発見して鑑定人に問い合わせたところ、当初の鑑定書には被害者の膣内に残されていた精液はA型またはO型であると記された付属説明文書が添付されていたことが分かった。<br />被害者の陰毛に付着していた精液は輿掛と同じB型のものであったため、弁護団は複数犯による犯行を強く疑うようになっていった。<br /><br /><strong>柳川鑑定</strong><br />柳川助教授の再鑑定書は1991年（平成3年）5月17日に完成した。<br />鑑定書は、統計的鑑定法の考え方についての総論と、この観点から具体的に科警研の毛髪鑑定の誤りを指摘する各論部分からなり、結論として「あらゆる点において、本件において採用された毛髪鑑定法は、信頼性ある科学的根拠をもった鑑定とはいえない」と断言するものであった。<br />弁護団は、この再鑑定書を5月23日の控訴審第8回公判に証拠として申請し、6月25日の第9回公判では柳川助教授の証人尋問が行われた。<br />柳川助教授は鑑定書と証言で、まず、被告人の毛髪のサンプルが少なすぎて被告人の毛髪の特徴自体が明確になっていないこと、科警研の形態学検査は鑑定人の経験に依存しており科学的とは言えないことを指摘した。<br />分析化学的検査としての元素分析については、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の毛髪の塩素・カリウム・カルシウムの含有量を比較して輿掛と同程度であったと鑑定したものであるが、各人のデータには幅があり、しかも被害者の姉と輿掛の数値は大部分が重なっていることを示し、本来、この重なりあった部分は「鑑定不可能領域」であり、事件現場で採取された毛髪の数値がこの領域にあれば被害者の姉のものとも輿掛のものとも判定できないものであると指摘した。<br />それにもかかわらず、科警研の毛髪鑑定で事件現場で採取された毛髪のデータが輿掛のデータと一致したと判断しているのは失当であり、そもそも人の毛髪はほとんどの人で元素含有量のデータは大部分が重なるものであるから3人の毛髪だけと比較しても全く意味がないと主張した。形態学検査も含めて、科警研の毛髪鑑定は、事件現場で採取された毛髪と被害者・被害者の姉・輿掛の3人の毛髪としか比較しておらず、事件現場で採取された毛髪が3人以外のものである可能性を全く考慮していないとし、これは、3人の中に犯人がいるという前提に立たなければ有効ではなく、方法論からしてすでに致命的欠陥を抱えた、結論ありきの鑑定であると非難した。<br />そして、最終的に、科警研の毛髪鑑定は「科学の名に値しない」と切って捨てた。<br />これに対して検察側は、7月24日付で科警研で毛髪鑑定を実施した科警研の技官の反論書を提出し、8月1日の第10回公判では柳川助教授に対する反対尋問を行ったが、反論書は柳川教授の指摘に正面から答えるものではなく、検事による反対尋問も的外れな質問を繰り返しては前田一昭裁判長からたびたび注意を受けるありさまであった。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">法廷外の支援</span></strong><br /><strong>『夢遊裁判』</strong><br />1991年（平成3年）2月、ノンフィクション作家の小林道雄は、互いの親類の結婚により縁続きとなる者から、甥が熱心に支援しているというみどり荘事件の資料を受け取った。<br />この甥は、輿掛の自衛隊時代の銃剣道部の先輩で、自衛隊退職後は東亜国内航空の整備士として羽田整備工場に勤務していた。<br />彼は、輿掛の逮捕当時、警察からの電話で自衛隊時代の様子を聞かれて輿掛が自衛隊を退職することになった飲酒運転事故のことを話したが、輿掛をよく知る彼は、輿掛が殺人事件の被疑者となっていることについては「彼は絶対にそんなことをする人間ではない。何かの間違いではないか」という話をしていた。<br />その後、控訴審の審理が始まってから、弁護団は輿掛から「T警部補に、自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていたと追及された」という話を聞き、安東弁護士が彼に確認の電話を入れた。<br />彼は、自分の話の一部が切り取られ、言っていないことを捏造されて輿掛の追及に利用されたことに憤り、以後、輿掛の無実を信じて積極的に活動していた。<br />直接彼から事件と裁判の詳細を聞き興味を持った小林は、大分で弁護団と会い、控訴審第7回公判以降の裁判をたびたび傍聴し、輿掛とも面会するなど取材を重ねた。<br />弁護団は、輿掛の逮捕前後のマスコミの報道姿勢に対する不信感からジャーナリストの肩書を持つ小林を警戒感をもって迎えたが、丁寧な取材を通じて積み上げた事実を基に判断しようとする小林の取材手法に触れる中で徐々に信頼関係が形成されていった。<br />一方の小林は、初めて会ったときの自然体の対応や庶民的な飲み屋に通う姿から、初対面で弁護団に好印象を持ったと記している。<br />それでも小林は、当初、事件については予断を持つまいと努めていたが、弁護団から渡された一審判決を読んで、少なくとも刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」に反すると感じ、また、取材を通じて輿掛の無実を信じるようになっていった。<br /><br />1991年（平成3年）10月、小林は月刊誌『現代』誌上で「女子大生暴行殺人事件-ある『夢遊裁判』の記録」を発表し、事件の問題点を世に問うた。<br />この反響は大きく、みどり荘事件は社会的な注目を集めるようになっていった。 <br />その後、小林は、後述するDNA鑑定の鑑定結果を待っていた控訴審第17回公判ころまでをまとめた『夢遊裁判 ―なぜ「自白」したのか―』を1993年（平成5年）6月に出版し、1996年（平成8年）12月には裁判終了後までの内容を大幅に加筆・改題したものが『<冤罪>のつくり方 ―大分・女子短大生殺人事件―』として文庫化された。<br /><br /><strong>救援会</strong><br />控訴審が始まってから弁護団は、広く事件の真実を伝え一審判決の不当性を訴える必要性を感じていた。<br /><br />1991年（平成3年）11月29日の弁護団会議で、正当な判決を求める人々を組織して世論の力で外から裁判所を包囲する方針を確認し、安東弁護士を中心に救援会設立に向けて動き出した。<br /><br />翌1992年（平成4年）1月26日に「みどり荘事件を考える会」を開催することを決め、1991年（平成3年）12月27日には、県内で様々な問題に取り組む約40名に、『現代』に載った小林の「夢遊裁判」を同封して参加を呼び掛ける文書を発送した。<br /><br />1992年（平成4年）1月26日、大分市の大分文化会館で「みどり荘事件を考える会」が開催された。<br />事前の弁護団の心配をよそに、準備していた席はすぐに埋まったため急遽追加の椅子を持ち込み、最終的に約50名が参加する大盛況となった。<br />「考える会」では、一審判決や「自白」、科警研の毛髪鑑定、輿掛の傷などの問題点を、休憩なしで約4時間、弁護士が交替しながら熱く語った。<br />そして、3月9日の次回控訴審第13回公判で、直接輿掛を見て、その語る声を聞いて、輿掛の人柄を確認してほしいと傍聴を呼び掛けた。<br />その控訴審第13回公判には、それまでほとんど傍聴者のいなかった法廷に十数名の傍聴者が集まり、輿掛の被告人質問を見守った。<br />こうした人たちを中心に救援会の結成に向けた準備会を重ね、同年5月17日には市内中心街で結成集会への参加を呼び掛けるビラ1,000枚を配った。<br />呼びかけ人には57名が名を連ねた。<br />同年5月24日、大分市の大分県労働福祉会館で、真相報告会と救援会結成の集会が行われ、180名余りが参加した。<br />「考える会」と同じく各弁護士が事件と裁判の概要と問題点を語り、鈴木弁護士は「いけにえの論理にマスコミが加担」と題して当時のマスコミの報道姿勢を批判した。<br />参加者の一人、ホテル時代の輿掛の同僚は、マスコミの報道を信じて輿掛を犯人にしてしまったと自らを責め、年月がたって世間からいろいろと言われることも少なくなった中であえて姿を見せた輿掛の家族の気持ちを慮る言葉を涙ながらに語って、参加者の感動を呼んだ。<br />救援会は「輿掛さんの冤罪を晴らし、警察の代用監獄をなくす会」（略称みどり荘救援会)と命名された。<br />みどり荘救援会は、安東弁護士を事務局長として、主に次のような活動を行っていった。<br /><br /><strong>会報の発行</strong><br />みどり荘救援会結成を報告した第1号から控訴審判決が確定した約5か月後の第20号まで、『無罪』と題する会報を発行した。<br />会報は結成総会や公判傍聴に参加できなかった会員にその内容を伝え、新たな会員の獲得や次回公判の傍聴を勧誘する役割を果たした。<br /><br /><strong>真相報告会の開催</strong><br />みどり荘救援会は、会員のつてを頼りに真相報告会を開催した。<br />結成3か月後の同年8月には佐伯市で100名、日田市で180名を集めるなど大分県内各地で報告会を繰り返し、1994年（平成6年）6月28日には初めて福岡市で開催するなど、最終的に約50回を数える報告会を実施して支援の輪を広げていった。<br /><br /><strong>裁判の傍聴</strong><br />前述の通り、弁護団はみどり荘救援会結成前の第13回公判の傍聴を呼び掛け、十数名が傍聴した。<br />傍聴活動の目的は、支援者が裁判を見て輿掛が無実かどうか自分自身で判断することと、大勢の支援者で傍聴席を埋めて輿掛を励ますことであった。<br />『夢遊裁判』を著したノンフィクション作家の小林は著書の中で、それまで閑散としていた傍聴席に十数名が入っただけで、法廷の雰囲気が一変したと記している。<br />みどり荘救援会結成後の第14回公判からは、救援会がマイクロバスを準備しての傍聴活動が始まったが、回を追うごとに傍聴希望者が増え、すぐにマイクロバスから大型バスに変わった。<br />行きのバスの車内では必ず同行する安東弁護士からこれまでの裁判の推移と当日の公判での弁護側の意図が説明され、帰りの車内では弁護士から当日の公判の解説を聞き、参加者にはビールが配られて一人ひとりが感想を述べ合った。<br />みどり荘救援会は、結成後1週間で190名の会員が集まり、同年末には400名を超えた。<br />そして、控訴審判決直前に開かれた1995年（平成7年）5月27日の第4回総会時点で、会員数は621名を数えている。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">DNA鑑定</span></strong><br /><br /><strong>委嘱</strong><br /><br />弁護側が柳川鑑定書を提出した1991年（平成3年）5月23日の第8回公判終了後、前田裁判長は弁護団と検察を呼び出し、犯行現場に遺留されていた毛髪と被害者の膣内から採取された精液をDNA鑑定にかけることを打診した。<br />この日の毎日新聞朝刊の1面には、「DNAで犯罪捜査」の見出しで「警察庁が五月二二日に、DNA鑑定について、鑑定方法などを統一したうえで制度として犯罪捜査に導入することを決めた。この鑑定制度の導入により、わずかな血痕、体液、皮膚片から個人の特定が可能となり、日本の犯罪捜査は指紋制度の発足（一九一一年）以来の大転換となる」とする記事が掲載されていた。<br /><br />科警研の毛髪鑑定の信用性を崩しかけていた弁護団はこの申し入れに困惑し、弁護団会議では侃々諤々の議論が交わされた。<br />当時、DNA鑑定は100万人に一人の確率で個人識別が可能などとマスコミで報道されていたが、まだまだ未知の領域でありDNA鑑定の科学的信頼性には強い疑問が残る、すでに無実の立証は尽くされており不要であるなどとして、弁護団は当初DNA鑑定には否定的であった。<br /><br />しかし、8月1日の第10回公判後にも再度裁判所からDNA鑑定を行いたい意向が示され、最終的に弁護団も、膣内から採取された精液が輿掛のものではないとする鑑定結果が出れば無罪が明らかになること、無罪を争いながらDNA鑑定に反対することは弁護団も不安を持っていると受け取られかねないこと、打ち合わせの場で陪席裁判官から「DNA鑑定がなくても自白がある」との発言があったことから裁判所側がこの段階で無罪の心証を持っているとは言えないこと、さらに、裁判所の強い意向を考えると受け入れざるをえないとして、DNA鑑定の実施に同意した。<br /><br />こうして、有罪にするにしろ無罪にするにしろ確かな証拠が欲しい裁判所、科警研鑑定が崩された検察、しぶしぶ受け入れた弁護団と、三者三様の思惑を抱きつつ、10月31日の第12回公判で日本で初めての裁判所の職権によるDNA鑑定が行われることが決まった。<br />鑑定は、DNA多型研究会（現日本DNA多型学会）運営委員長の筑波大学三澤章吾教授に依頼することになり、同年11月14日、同大社会医学系長室で鑑定人尋問が行われDNA鑑定が委嘱された。<br />鑑定事項は、被害者の膣内容物を採取したガーゼ片に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有するものが存在するか、事件現場から採取された毛髪に輿掛の血液から抽出するDNAと同一のDNA型を有する毛髪が存在するかの2点であった。<br />三澤教授からは、同大の原田勝二助教授を鑑定補助者にしたいと申し出があり、認められた。<br />また、鑑定対象と同程度の古い毛髪を使用しての予備実験に約6か月、その後、実際の試料を用いた鑑定にさらに約6か月かかるため、鑑定結果が出るのは約1年後の翌年10月になる見込みであること、鑑定過程で試料は全量費消される旨の説明があった。<br />尋問に立ち会った古田・徳田・安東・西山の4弁護士は、後日検証が可能なように、試料は全量費消せず一部を残しておくこと、実験ノートを作成して実験データ等の鑑定経過を記録に残し提出できるようにしておくことの2点を要求し、三澤教授も了承した。<br /><br /><strong>鑑定待ちの間の審理</strong><br />DNA鑑定が委嘱されその結果を待つ間、弁護側は「自白」の任意性・信用性を焦点に再度被告人質問を行った。<br />ここで弁護側は、一審での輿掛と弁護人の信頼関係についてと、「自白」の変遷についてを明らかにしようとした。<br /><br />一審判決が輿掛の「自白」の信用性を認める最大の拠り所としたのは、通常虚偽や強制された自白の撤回は公判の早い段階でなされるものであるのに、輿掛は一審第12回公判まで不利益供述を維持した点であった。<br />実際には一審第2回公判以降は輿掛に発言の機会はなく、次に発言した一審第12回公判で「自白」は撤回していたが、徳田弁護士の誘導尋問によって一審第1回・第2回公判での供述に引き戻されていた。<br />弁護団は、一審第1回・第2回公判で不利益供述をしたのは弁護人との間に信頼関係が築けていなかったためであり、第12回公判で徳田弁護士の誘導尋問に乗って「事件現場にいたことは覚えている」旨を認めたのは逆に信頼関係が生まれていたからだということを明らかにしようとしていた。<br />一審の古田・徳田両弁護人は一審での弁護活動を自己批判する供述録取録を提出し、1992年（平成4年）3月9日の第13回公判では輿掛の口から「一審での不利益供述の維持は弁護人に問題があった」ことを引き出そうとした。<br />特に一審第12回公判で強引に供述を引き戻した徳田弁護士は、事前に輿掛と何度も打ち合わせを行い、「そんなことは言えません」という輿掛に対して、「僕があのような質問をしなければ有罪認定の理由に使われることもなかった」<br />「君は僕を憎まなければならない」<br />「お前があんなことを言ったせいで有罪にされたんだという思いを込めて言わなかったら伝わらない」<br />と繰り返し説得した。<br />しかし、公判では輿掛から弁護人を批判するような言葉は出てこなかった。<br />公判後、輿掛は「先生たちの質問に充分に答えられず、申し訳なかったと思っています」と手紙に書いたが、輿掛の性格をよく知る徳田弁護士は「やっぱり駄目でしたね」と静かに笑っただけであった。<br /><br />続く同年6月17日の第14回公判で、弁護団は「捜査段階における被告人の不利益供述の変遷と信用性に関する弁護人の意見書」と題する意見書を提出し、9月7日の第15回公判にかけて輿掛の「自白」の変遷について被告人質問が行われた。<br />この中で弁護団は、輿掛の「自白」が重要な点あるいは記憶違いとは考えにくい点で変遷しており、しかもその理由が全く説明されていないことを指摘した。<br />例えば、事件現場の203号室から自室に戻る際、当初は裸足であったとはっきり述べていたにもかかわらず、裸足だったと思う、裸足だった気がすると変わっている。<br />また、当初の自室に入る際に鍵を使ってドアを開けたと思うとの供述も、「鍵をしてあったかどうかがはっきりしません」という供述を経て、最終的に「鍵を開けて入った記憶はありません」と変遷している。<br />弁護団は、これらは輿掛にとって何の意味もないことであるが、警察が当初輿掛は窓伝いに203号室に侵入したと想定していたと仮定すると意味のある変遷になると主張した。<br />すなわち、窓伝いに侵入したとすると裸足で行動したはずであり、事件当日買い物から帰った時に部屋の鍵を閉めた輿掛は犯行後に鍵を開けて自室に戻ったはずである。<br />しかし、窓伝いに侵入したとする仮説が物理的に不可能なことが判明すると、裸足で行動したり、犯行後に戻ってくる自室のドアに鍵をかけてから203号室に行き犯行に及んだとすることは逆に極めて不自然となってしまうため、当初の供述を変更する必要が生じたと考えることができる。<br />弁護側は、こうした供述の変遷は、輿掛の「自白」が警察によって強制ないし誘導されたものである何よりの証拠であると主張した。<br /><br />同年11月25日の第16回公判には、事件直後に輿掛に取材した新聞社の記者が出廷した。<br />輿掛は、事件直後に当時の恋人の実家に電話を掛けた後に新聞社の記者から取材を受けたと話していたが、どこの新聞社の誰であるのかは分かっていなかった。<br />しかし偶然にもこの年の4月にその記者が別件で徳田弁護士に手紙を出し、その中で事件直後の輿掛に取材をしたことが触れられていたことから、事件直後に取材したのがこの朝日新聞社の記者であることが分かったのであった。<br />この記者は当時の取材メモも残しており、記憶とこのメモをもとに事件直後の輿掛の様子を証言した。<br />この記者によれば、「みどり荘に到着したのは1時15分ころで、すでに規制線が張られていた。公衆電話で話していた輿掛を見つけて電話が終わるのを待って声をかけた。輿掛は質問にはすべて答え、特に不審な様子は感じなかった。輿掛は上下ジャージであったが、ジャージの下に何かを持っている様子もなかった。取材後はまっすぐみどり荘に帰って行った」ということであった。<br />また、後に輿掛が重要参考人として捜査対象になっていることを知った際には「非常に意外で何か自分は人を見る目がないのかなと思いました」と述べている。<br />弁護側は、この証言によって、電話を掛けるために外出した際に血液等の付着した下着などを処分する余裕があったとした一審判決の認定の誤りを立証できたと考えた。<br />一方、DNA鑑定の結果はなかなか提出されなかった。<br />当初は鑑定書の提出は1992年（平成4年）10月ころを目途とされていたが、同年9月の裁判所の問い合わせに対して三澤教授は12月末になると回答した。<br />しかし、年が明けても提出されず、1993年（平成5年）2月4日の第17回公判では新たに着任した金澤英一裁判長から「鑑定書の提出は4月上旬になる」と報告され、この公判以降鑑定結果待ちとなって審理は完全にストップした。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">鑑定結果</span></strong><br /><br />三澤教授からの鑑定書は、1993年（平成5年）8月12日に福岡高裁に提出された。<br />三澤教授によるDNA鑑定は、対象試料からACTP2 (ACTBP2)と呼ばれるマイクロサテライトの部位をPCR法で増幅させ、そのGAAAの4塩基の反復回数でDNA型を判定するというものであった。<br />これは、マイクロサテライトをDNA鑑定に用いた日本で初めての例となった。<br />鑑定結果は、被害者の膣内容物が含まれたガーゼ片からは被害者と同一のDNA型しか検出されなかったが、事件現場から採取された毛髪のうちの1本（符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1）から、輿掛と同一のDNA型が検出されたというものであった。<br />鑑定書によれば、血縁関係にない全くの他人が同一のDNA型となる確率は0.088％とされていた。<br />鑑定結果に驚いた弁護団は同日中に鑑定書を入手すると直ちに内容の精査に入ったが、読めば読むほど鑑定書に多くの問題があることが明らかになった。<br />鑑定書には「鑑定には平成三年一一月一四日から平成五年八月一〇日までの六三六日を要した」と記されているにもかかわらず鑑定書の作成日付が「平成五年七月三一日」と記されていることをはじめ、鑑定データからは11/23型となるべき輿掛のDNA型が16/36型とされているなど、基本的な点や重要な点に多くの誤りが見つかった。<br />全26ページ（本文9ページ、註・図等17ページ）の鑑定書中で、弁護団が発見した誤りは53か所に及んだ。<br />また、膣内容物からは被害者のDNA型しか検出されなかったが、鑑定書には「この結果は、膣内容物中に精子が付着していなかった事を積極的に裏付けるものではない。勿論、輿掛良一の精子由来のDNAが膣内容物に存在しないという結論も導き出せない」と記述され、これは鑑定人が予断をもって鑑定にあたったことを感じさせるに十分であった。<br />さらに、0.088％という確率を導いたデータベースのサンプル数は65と少なすぎて信頼性に疑問があることに加え、添付された表から計算すると正しくは0.178％であった。なお、弁護団は鑑定書が届いて1週間後の8月19日の時点ですでに鑑定結果が誤りであることを示す決定的な証拠をつかんでいたが、輿掛と弁護団のほかにはごく一部の者にしか知らせずに切り札として温存し、当面は鑑定書の矛盾や問題点を正面から追及していくこととした。<br /><br />9月21日、鑑定結果を受けての裁判所・弁護団・検察三者の打ち合わせがもたれた。<br />「この事件はDNAで決まりでしょう。いまさら、弁護団は何をされるのですか」という金澤裁判長に対して、弁護側はいくつかの誤りを示して鑑定の杜撰さを指摘し、三澤教授の尋問を求めた。<br />裁判所側は三澤教授の多忙を理由に筑波大学での出張尋問を提案したが、弁護側は裁判公開の原則を盾に公判での尋問を譲らず、福岡高裁で鑑定人尋問が行われることになった。<br />この打ち合わせの翌々日の9月23日、福岡高裁に三澤教授から鑑定書に対する訂正書が届き、32か所が訂正された。<br />刑事事件の鑑定書でこれだけの箇所が訂正されるというのは前代未聞であった。<br />また、訂正書の作成日付は9月20日付、消印は9月22日であった。<br /><br /><strong>鑑定人尋問</strong><br />1993年（平成5年）12月9日の第19回公判から、三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。<br />三澤教授は、鑑定書の作成日付については「秘書のワープロミス」と弁明したが、鑑定試料の番号の誤りについてや、鑑定試料と同程度の古い試料を用いた予備実験をいつからいつまで行ったのか、実際の鑑定試料を用いた鑑定はいつ始めたのかなどについては「実験に関与していないので分からない」と答えた。<br />また、弁護側の「基礎データに基づいて鑑定文が書かれるはずであるのに、基礎データと鑑定文が食い違っているということは、データの改竄や作り直しがあったのではないか」との追及に対しては「基本ルールに従った」「結論に間違いはない」と繰り返し、金澤裁判長からも「質問の意味が分かっていない」と諌められた。<br />そして、弁護側は鑑定前の尋問で約束していた実験データ等の提出を求めた。<br />三澤教授はこれに応じ、この公判に前後してX線写真のフィルムや測定データ等を提出した。<br /><br />翌1994年（平成6年）1月26日の第20回公判でも三澤教授に対する鑑定人尋問が行われたが、この日の公判でも弁護側からの質問に三澤教授は「それは原田助教授がやった」と繰り返すばかりだった。<br />この日の尋問では、三澤教授は鑑定作業や鑑定書作成に全く関与しておらず原田助教授に任せきりにしていたこと、実際に鑑定試料を使って鑑定作業を始めたのは鑑定書を提出した1993年（平成5年）の5月であったことが明らかになった。<br />三澤教授に対するDNA鑑定の委嘱は1991年（平成3年）11月14日に行われたが、そこから鑑定書提出までの経緯は、後に判明したものも含めると以下のようなものであった。<br />1991年	11月	<br />鑑定委嘱	翌年10月に提出の見込<br /><br />1992年	春頃	<br />同程度に古い試料の鑑定を試みるも判定不能<br />ACTP2の存在を知る	<br /><br />9月<br />12月中に提出と回答<br /><br />年末<br />ACTP2を用いた実験開始	<br /><br />1993年	2月	<br />4月上旬に提出と回答<br /><br />5月	<br />鑑定試料を用いた鑑定を始めるも判定不能	<br /><br />7月	<br />判定可能となり鑑定書作成	<br /><br />8月	<br />鑑定書提出<br /><br />三澤教授らは、鑑定を引き受けた段階で、10年前の古い試料からDNA鑑定を行う具体的な方法を知らなかった。<br />1992年（平成4年）春まで、鑑定試料と同程度の古い試料を用いてGSTπやアポBといったマイクロサテライトで鑑定を試みたが、結果は判定不能であった。<br />たまたまそのころイギリスの科学雑誌『ヌクレィック・アシッズ・リサーチ』にACTP2というマイクロサテライトを紹介している記事を見つけ、三澤教授らはこれを用いた鑑定を試みることにする。<br />同年末ころから実験を始め、茨城県内の70名の血液からデータベースを作成して1993年（平成5年）4月の日本法医学会で「血痕・毛根試料からの個人識別に有効なVNTR（高変異反復配列）の検出」と題して報告し、異論が出なかったことから学会で承認された形となった。<br /><br />学会後の1993年（平成5年）5月から、鑑定試料を用いた鑑定作業を始め、当初は判定不能であったが7月ころから判定可能となって原田助教授によって鑑定書が作成された。<br />三澤教授は、原田助教授から完成した鑑定書を受け取って、30分から1時間程度目を通して記名・押印して提出した。<br />このような経緯であったにもかかわらず、いまだACTP2を用いた実験を行う前の1992年（平成4年）9月に裁判所からの照会に対して12月中に鑑定書を提出できると回答し、鑑定試料を使った鑑定作業に入る前の1993年（平成5年）2月にも4月上旬に提出すると回答するなど、三澤教授らは裁判所や弁護団に対して虚偽の報告を繰り返していたのであった。<br /><br />4月20日の第21回公判でも引き続き三澤教授に対する鑑定人尋問が行われた。<br />ここではデータベースの信用性が問われたが三澤教授はまともに回答できず、法廷には傍聴していた統計応用学者で元明治大学教授の木下信男の高笑いが響いた。<br />木下元教授は閉廷後に三澤教授のことを「集団遺伝学についてまったく無知」と語ったが、三澤教授は金澤裁判長からも公判中に理解不足を指摘されている。<br />また、この日の公判で、検察側・弁護側双方が三澤教授の鑑定書に対する意見書を提出した。<br />検察側は、原田助教授を鑑定補助者として実験を行わせることは鑑定を委嘱する際に弁護人も了承していると主張したが、弁護側は、宣誓の上で鑑定を引き受けたのはあくまで三澤教授であり、原田助教授を鑑定補助者とすることが認められているとはいっても限度があるとして鑑定書は真正に作成されたとはいえず証拠能力がないと主張し、多忙や人員不足、鑑定に必要なアイソトープを扱う免許がないなどとして原田助教授に丸投げした三澤教授は鑑定人としての自覚や資格に欠けると厳しく指摘した。<br />さらに、弁護側は意見書の中で、これまで隠してきた毛髪の長さの問題を初めて指摘した。<br /><br /><strong>長さの問題</strong><br />弁護団が指摘した毛髪の長さの問題とは、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」の毛髪が15.6センチメートルの長さがあったという点である。<br />事件当時の輿掛の髪型はパンチパーマで、当時警察に任意提出した毛髪は最も長いものでも7センチメートルであり、一目見て輿掛のものではないと分かるものであった。<br />実際、この「符号16-1、台紙番号10、毛髪番号1」は事件当日の1981年（昭和56年）6月28日に被害者の部屋の和室の押入れ前で採取されたもので、大分県警の科捜研から警察庁の科警研に毛髪鑑定に出す際にも、長さや形状から被害者または被害者の姉のものと判断されて対象から除かれたものであった。<br />それでも検察側は、たまたま長いものがあったのではないかと主張した。<br /><br />1994年（平成6年）6月6日の第22回公判では、実際に鑑定にあたった原田助教授に対する尋問が行われた。<br />原田助教授は、検察側の主尋問に対して、鑑定書でいう「同一の型」とは「類似性が高い」という意味であると証言した。<br />弁護団は、「同一の型」と「類似性が高い」では全く意味が違うと驚いたが、鑑定の信用性が揺らいできたと感じて軌道修正を図ったものととらえた。<br />この日の弁護側の質問では、原田助教授に対してACTP2法でのDNA型の分類方法を繰り返し確認した。<br />ACTP2法はGAAAの4塩基の繰り返し回数で判定するものであるので理論上は4塩基ごとに分類すれば良いはずであるのに、三澤鑑定では1塩基ごとで分類していたためである。<br />しかし、実際にはACTP2に3塩基や5塩基の不規則なものもあることが分かったため1塩基単位の分類とされており、原田助教授は、この分類方法では1塩基でも違えば他人であること、また、総塩基数が同じであっても3塩基や5塩基のものも含めて結果として同一になっている可能性があり、その場合も他人であることを認めた。<br /><br />7月4日の第23回公判には、事件当時の輿掛の髪の長さを立証するために弁護側の申請した3名の証人が出廷した。<br />一人目は、輿掛の長姉であった。<br />長姉は事件の約10か月前に執り行われた輿掛の父の葬儀の様子を写真に撮っており、そこには、短髪の輿掛が写っていた。<br />長姉は、写真は父の葬儀の時のものであり、その前日に「喪主だからきちんとしなければいけない」と言って輿掛を散髪に行かせたと証言した。<br />二人目に証言に立ったのは事件当時輿掛の行きつけの理容店で輿掛を担当していた理容師で、葬儀の時の写真を見て髪型は角刈りで長い部分でも1センチメートル以下であると証言した上で、人の髪は1か月に約1センチメートル伸びること、事件前に輿掛はおおむね月に1度来店してパンチパーマをかけていたこと、事件後の1981年（昭和56年）7月11日に撮影された輿掛の髪型もパンチパーマであることなどを証言した。<br />最後に証言した大分県理容美容職業訓練協会の副会長も、葬儀の時の輿掛の髪型は角刈りで長くても1センチメートル、人の髪は1か月に約9ミリメートルから1センチメートル伸びるとし、パンチパーマをかけた髪は長くても5センチメートルであり、事件後の輿掛の写真は幾分伸びているが5から8センチメートルの長さであり、またパンチパーマは時間の経過とともに緩むことはあってもストレートになることはないと証言した。<br />これらの証言から、輿掛の父の葬儀から事件当日までは約10か月であり、その間一度も散髪をしなかったとしても11から12センチメートルにしかならず、また、事件当時の輿掛はパンチパーマでどんなに伸びていたとしても10センチメートルを超えることはないことから、DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする15.6センチメートルの毛髪は輿掛のものではありえないことが立証された。<br /><br /><strong>保釈</strong><br />DNA鑑定で輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪が輿掛のものではありえないことが明らかになった第23回公判直後の1994年（平成6年）7月7日、弁護団は福岡高裁に対して輿掛の保釈を請求した。<br />保釈請求書では、輿掛の身柄拘束が12年6か月に及んでいること、逮捕や一審有罪の決め手となった科警研の毛髪鑑定はすでに「科学の名に値しない」と否定されたこと、検察側の立証は終了しており罪証隠滅の恐れはないこと、輿掛は潔白を主張する場として公判に積極的に関わっており、また、無罪を確信しているため逃亡の恐れも全くないことなどを理由として挙げた。<br /><br />7月11日、福岡高裁第一刑事部は保釈許可を決定。<br />これに対して検察側は、一審で無期懲役が言い渡された重大事件であること、控訴審での審理でも輿掛を犯人とする証拠が増大しており罪証隠滅の恐れもあること、一審・控訴審の審理経過からして勾留が不当に長期にわたっているとは言えないことなどから、保釈許可決定には裁量権の逸脱があり違法として直ちに異議を申し立て、同高裁第二刑事部で審理されることになった。<br />弁護側は、一審の審理の長期化は検察側の大量の補充立証が原因であり、控訴審の審理の長期化も裁判所の職権でDNA鑑定を採用したことによるもので、輿掛には何らの責任もないのであるから長期の勾留を甘受すべきいわれはないと反論した。<br /><br />8月1日9時50分、福岡高裁第二刑事部は検察の異議申立の棄却を決定。<br />決定では、そもそも犯人と輿掛を結び付ける直接証拠自体が乏しい上に検察側の立証はすでに終了しており現在争いになっている13年余り前の輿掛の髪の長さについて罪証隠滅は考えにくいとし、弁護人全員の身柄引き受け書が提出されており輿掛にしてみれば簡単には出せない300万円が保証金とされているとして逃亡の恐れも薄いとし、12年6か月以上拘束が続いていることも考慮すると、保釈許可は裁量権を逸脱して違法とは言えないとした。<br />検察は特別抗告を断念し、輿掛は同日保釈された。<br /><br />殺人事件で一審で無期懲役判決を受けた被告人が保釈されるのは日本ではきわめて稀である。<br />当日の夕刊は、この異例の保釈を大きく取り上げた。<br />その日の夕方に大分に戻った輿掛は、18時から大分県労働福祉会館で開催された「保釈歓迎・完全無罪をめざす集会」に参加した。<br />会場には、急な呼びかけにもかかわらず350名の支援者が集まった。<br /><br /><strong>「破綻」</strong><br /><br />1994年（平成6年）11月16日、第24回公判で病気入院中の金澤裁判長から永松昭次郎裁判長に交代し、12月19日の第25回公判では、再度原田助教授を呼び、尋問が行われた。<br />弁護側は、前回の尋問での原田助教授の「1塩基でも違えば他人」という証言を前提に、実際の鑑定におけるDNA型の判定方法を中心に質した。<br />三澤教授の鑑定方法は、試料からACTP2と呼ばれるGAAAの4塩基の繰り返しからなるマイクロサテライトを抽出し、PCR法で増幅して電気泳動にかけ、その移動距離で塩基数を計測するというものであったが、電気泳動はその時々の条件によって結果が異なるため、100塩基単位のラダーマーカーと呼ばれる既知の塩基数の試料を同時に電気泳動にかけることで、それとの比較から対象試料の塩基数を計算して求める。<br />原田助教授によれば、電気泳動の結果を撮影したX線フィルムを拡大コピーしたものにトレーシングペーパーをあて、泳動結果を示すバンドの中心に鉛筆で線を引いて泳動距離を測定したということであった。<br />1塩基の違いは、元のX線フィルムで約0.33ミリメートル、拡大したもので約0.5ミリメートルにあたる。<br />しかし、輿掛の血液のDNAのバンドの幅は約8ミリメートル（24塩基分）、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のバンドの幅は約2ミリメートル（6塩基分）あった。<br />原田助教授らの測定方法は、それぞれのバンドのだいたい真ん中と思われるあたりに目測で線を引いて、その距離を1ミリメートル単位の目盛の普通の定規で測るというものであった。<br />このやり方では、それぞれのバンドのどこに線を引くかで数塩基程度の誤差は容易に生じうるし、引かれた線も基準の線と平行ではなく、どこを測るかによって計測結果が変わってしまう。<br />実際、鑑定書の元となったデータには、輿掛の血液と輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪の各バンドをそれぞれ3回測った測定データがあったが、同じバンドを測ったはずのその値は、測定の都度異なっていた。<br />弁護団は、1塩基単位で正確な計測が求められるにもかかわらずこのような測定技術しか持っていなかったことから、「本鑑定は破綻しているのではないか」と追及した。<br />これに対して原田助教授は、「当時としては、できる限りの技術を使った」としつつも、「今の研究成果からみると、未熟」で、「明らかに先生のおっしゃるとおり」「破綻していると言っても差し支えない」と答えた。<br />その瞬間、傍聴席からはどよめきが上がり、裁判官は驚いた表情を浮かべた。<br />さらに、弁護側は「同一の電気泳動パターンが検出された」として鑑定書に添付された電気泳動写真について追及した。<br />輿掛の血液のDNAバンドがレーン1に、輿掛と同一のDNA型が検出されたとする毛髪のDNAバンドがレーン2にあり、同じ位置にバンドが現れているように見える。<br />弁護団が鑑定書を入手した際に、鑑定書を渡して意見を求めた新潟大学の山内春夫教授は「被告人のバンドと現場遺留毛髪のバンドは同一であるように見える」と言い、九州大学の柳川教授も「鑑定書にミスが多いことをいくら強調しても、実験データが崩れない限り三澤鑑定を否定できない」という感想を述べていたものである。<br />しかし、鑑定書の後から提出された元々のX線フィルムを確認すると、これは別々の機会に電気泳動にかけられたもののX線フィルムを合成したもので、それぞれの電気泳動ではラダーマーカーの泳動距離自体が異なっており本来比較できるようなものではなかった。<br />弁護団は「合成したことはどこにも書いていない」「同一の機会に行われた電気泳動の写真であると誤解するのではないか」と追及したが、原田助教授は、「あくまでわかりやすくするために参考として付けただけ」として電気泳動写真は「何の測定データにも根拠にもなっていない」と答えた。<br />そして、最後に、弁護側から再度「類似」の意味を問われた原田助教授は、ひょっとしたら同じかもしれないし違うかもしれないという意味であると答えた。<br />原田助教授の尋問が終わると、永松裁判長は弁護団と検察を別室に呼び、弁護側が請求していた傷についてと検察側が請求していた毛髪についての証人申請を取り下げるよう求めた。<br />弁護側・検察側ともにこれを受け入れ、この日の公判をもって控訴審の証拠調べを終えた。<br /><br /><strong>最終弁論</strong><br /><br />1995年（平成7年）2月24日、第26回公判が開かれ、13時30分に弁護側の最終弁論が始まった。<br />弁論は「本件事件の特徴と真犯人像」から始まり、捜査段階や第一審での輿掛の不利益供述の任意性と信用性、102号室の住民の水音に関する証言の信用性、輿掛の身体にあった傷の評価、科警研の毛髪鑑定、三澤教授によるDNA鑑定の証拠能力や信用性などについて、安東・徳田・千野・鈴木・荷宮・古田・岡村邦彦の各弁護士が順に弁護側の主張を述べていった。<br /><br />弁論の結びとなる「結語」は徳田弁護士が行った。<br />徳田弁護士は、第一審から弁護についた者として自ら担当を願い出て、誰にも相談することなく一人で「結語」を書き上げていた。<br />その内容は、自らの第一審での弁護活動を痛烈に自己批判するものであった。<br />　<em>原審第一回公判が開かれたのは、昭和五十七年四月二十六日である。既に十三年の歳月が経過した。<br />　その第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。<br />「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」<br />　本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋をもって読み返したことであろうか。<br />　これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面した時から始まった。<br />　ここには、新聞報道で全面自供と伝えられていたその「かけら」も認められなかった。「犯人は自分に違いない」との結論だけが強調され、何一つとして具体的な犯行状況が語られていないばかりか、何の脈絡もなく突然「気がついたら二〇三号室にいた」との供述に始まる調書は、私達の理解をはるかに超えていた。<br />　被告人がその不利益供述に至る過程で、三日間以上にわたって絶食状態であったことを私達は知らなかった。<br />　その故に、その被告人に対し連日十時間以上の取調べがなされたことの過酷さを私達は理解できていなかった。<br />　指紋が犯行現場に遺留されていた等という虚偽の事実が突きつけられ、「科学の名に値しない」毛髪鑑定結果の告知とともに被告人をがんじがらめに呪縛していたことを私達は予想だにしていなかった。<br />　母に合わせてくれと泣き崩れる被告人に対し、卑劣にもその「特別措置」の代償として、このような不利益供述が強制されたのだということを私達は知るよしもなかった。<br />　弁護人として、恥ずべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。<br />　その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠り、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることに気付かせる契機を与えることができなかった。<br />　被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。原審第十二回公判における被告人に対する強引な誘導尋問を含めて、私達は、自らの弁護人としての基本姿勢の誤りを何度か責め苛んできた。<br />　本弁論における被告人の不利益供述の任意性に関する分析は、その苦渋と悔悟と謝罪の所産である。<br />— みどり荘事件弁護団　「控訴審弁論要旨」</em><br /><br />そして、裁判所に対して、科警研の毛髪鑑定や三澤教授によるDNA鑑定といった「科学を装った非科学的鑑定」を厳しく明確に批判した上での完全無罪判決を求めて弁論を締めくくった。<br />徳田弁護士が弁論を終えると、2時間にわたる弁護側の最終弁論を静かに聞いていた傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。<br />永松裁判長は、「静かにしなさい」と拍手を制止した。<br />そして、「こんな立派な弁論に対して失礼でしょう」と付け加えた。<br />続いて検察側の最終弁論が行われたが、傍聴していたノンフィクション作家の小林道雄によれば、「弁護側が論破した問題点に対して、聞くべき反論はいささかもなかった」。<br />この公判で控訴審は結審し、判決公判は6月30日と指定された。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">控訴審判決</span></strong><br /><br />1995年（平成7年）6月30日、福岡高裁で判決公判となる控訴審第27回公判が行われた。<br />14時に開廷し、永松裁判長が「主文。原判決を破棄する。被告人は無罪」と逆転無罪となる判決を読み上げると、満席の傍聴席から大きなどよめきと拍手、そして被告人の長姉の咽び泣く声が法廷に響き渡った。<br />永松裁判長は「静かに」とそれらを制した後、判決理由を朗読した。<br />判決理由では、輿掛の首と手の傷についての検討から始め、争点となった点について以下の通り次々と弁護側の主張を認めていった。<br /><br /><strong>首・左手甲の傷</strong><br />まず、輿掛の頚部の傷について、一審判決では「被告人の傷の状態を最も慎重に綿密に観察しているのは、本件犯行直後被告人から事情聴取をしたT警察官であるとして、Tの証言を高く評価して」いたが、控訴審判決では、「Tは、被告人の傷を観察してから一年以上も経過した後に証言している」こと、「観察当時に損傷状態を写真に撮影するとか、損傷状態の見聞結果を詳細に図示するなど、確たる記録を残す措置をとっておらず、主として本人の記憶のみに基づいて証言していること」、「証言時より記憶が新しいはずの捜査段階においては、検察官に対し、右のようには供述せず、頚部の細長い傷はみみずばれみたいな状態であった旨供述していること」などから、「T証言の信用性については疑問の余地がある」とした。<br />また、牧角名誉教授の鑑定によれば、輿掛の頚部の傷は発赤反応であり「発赤反応は皮膚刺激から遅くとも二時間から三時間の経過によって消褪する」のであるから、輿掛の頚部の傷は「むしろ、本件犯行の犯行時間帯に生成されたものではない可能性の方が大きい」などとし、「虫に刺されて引っ掻いたかもしれないという被告人の弁解も、一概には否定できない」として、「被告人の頚部の損傷は本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が高いとした原判決の判断は、疑問であり、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。<br />また、左手甲の傷についても、一審判決では、ビールラックではこのような傷は生じず爪によって生じた可能性が高いとする鑑定結果から、「ビールラックを移動中に傷つけたかもしれない」という輿掛の弁解を排して被害者の抵抗によって生じた可能性が高いと判断したが、控訴審判決では、「縦横とも二ないし三ミリメートルのごま粒ほどの小さい傷であることを考慮すると、日常生活の中で気付かないうちに負傷することもあり得ないわけではなく」、「被告人の弁解は、ビールラックで打った時にできたのではないかという推測の説明であり、ビールラックで傷つけたという記憶に基づいたものではない」とした上で、「古いビールラックになると、その表面にささくれや凹凸が生じていることもあり、その部分と左手甲との接触によって負傷する可能性も全くないとはいえない」ことや、鑑定も「被告人が負傷したかもしれないという時に扱ったビールラックを使用せず、他のビールラックを使用して実施した」ものであることなどから、「本件犯行の際の被害者の抵抗によって生成された可能性が強いとした原判決の判断は、根拠に乏しく、是認することができない」として、これも一審判決の判断を退けた。<br /><br /><strong>毛髪鑑定</strong><br />事件現場から採取された陰毛について、一審判決は、科警研の毛髪鑑定を「信用性があると評価した上、被告人の陰毛である可能性の高い陰毛が二〇三号室に落ちていたと判断し、被告人と本件犯行とを結びつける重要な状況証拠の一つとしている」が、控訴審判決では、控訴審で提出された複数の文献は「いずれも、体毛鑑定によって個人識別ができるとすることには消極的」であり、科警研の鑑定人の一人も形態学的特徴や分析化学的特徴から断定的な識別は困難であることを認めていることから、科警研の毛髪鑑定では「本件遺留陰毛と被告人の陰毛とは『類似する』という程度の域を出ない」とし、「体毛鑑定は、個人識別の方法として絶対確実とはいえず」「体毛鑑定の結果を重要な決め手とすることは危険であって許されない」と断じた。<br /><br /><strong>DNA鑑定</strong><br />事件現場から採取された毛髪から輿掛と同一のDNA型が検出されたとする三澤教授によるDNA鑑定については、「長さ一五・六センチメートルもあるような本件遺留毛髪が被告人の毛髪であるとは到底考えられず」、実際の鑑定にあたった原田助教授も「現時点のレベルからみると、三澤鑑定書の鑑定結果は破綻していると言っても差し支えない旨自ら認めて」おり、「三澤鑑定書には、その信用性を是認することができず」「三澤鑑定書をもって、被告人と本件犯行とを結び付ける証拠とすることはできないと言わざるを得ない」として排した。<br /><br /><strong>「自白」の任意性・信用性</strong><br />捜査段階での不利益供述について、一審判決では、捜査員が母親に会わせることと引き換えになされた「約束による自供」にあたるとしたものの、任意性・信用性には影響がないとし、「倒れている被害者の側に立っていた」などの供述を事実と認定して、輿掛が犯人である決め手の一つとしていた。<br />控訴審判決では、まず、全体的な供述内容を、「被告人が被害者を殺したことは間違いないとしながら、犯行の動機はもとより、二〇三号室への侵入経路、強姦及び殺人の犯罪行為そのものに関しては、全く記憶がないという不自然なものである」と指摘し、一方で「倒れている被害者の状況に関する供述内容はあたかも死体発見当時の被害者の状況を撮影した実況見分調書の写真を見ながら供述しているかのようである。一読して、被告人の実体験に基づく供述であるか甚だ疑問である」。<br />また、「捜査官が、被告人が母親らの身の上を心配し、会いたがっていることを利用して、母親らと面会させる約束をし、実際に面会させたことの代償として不利益供述がなされたことは疑う余地がない」と認定し、「任意性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。<br />さらに、「捜査官が、被告人に対し、『お前の体毛が二〇三号室にあったという鑑定が出ている。』と決めつけて追及したこと」を「体毛鑑定の結果も、単に本件現場に遺留されていた体毛が被告人の体毛に類似するというにすぎず、被告人以外の者の体毛である可能性もあるわけであるから、本件体毛鑑定の結果をもって、被告人の体毛が二〇三号室にあったと決めつけて追及することは許されない」と捜査手法を厳しく批判し、「取り調べにおいて、被告人が心理的強制を受け、その結果虚偽の不利益供述を誘発された恐れが濃厚であるから、その任意性には疑いがあると言わざるを得ない」として輿掛の不利益供述の任意性を否定した。<br /><br />不利益供述の信用性について、一審判決は、102号室の住民の水音に関する証言が輿掛の「二〇三号室から二〇二号室に戻り、風呂場で足を洗い、それから顔を洗った」とする供述と一致することなどから輿掛の供述の信用性を認めたが、控訴審判決では102号室の住民の証言について「一方において、二階の騒ぎは、男の人が女の人を追い掛け回しているような感じの音であった旨、微に入り細に入った情景を証言していること、他方において、前記のとおり、二階で水を流す音は、風呂場の音よりトイレの音の方がはっきり分かるとしながら、二〇三号室の騒ぎがおさまった直後二〇五号室でトイレの水を流しているのに、その水音には気づかなかった旨、不自然な証言をもしていることを併せ考えると」「（102号室の住民）は、事件の内容を知った上で、想像をも交えながら、あたかもすべてを経験して知っているかのように証言しているのではないかという疑いが濃厚であり、ひいては、全体的に真実を証言しているのか疑わしい点が多いといわざるを得ない」などとして102号室の住民の証言自体の信用性を否定し、この証言をもとに「被告人の供述に信用性を認めることはできないものと言わざるを得ない」との判断を下した。<br /><br />そして、一審での不利益供述の維持については、「発熱して約三日間も食事がとれない状況下において深夜まで取調べがなされ、被告人の体毛が被害者方にあったと執拗に追及されて、被告人の自閉的内向的性格から心的破綻に陥り、記憶がないのは飲酒の結果であるかもしれないと考えるようになり、ついには『被害者方にいた。』と思い込むようになって、その旨の不利益供述をするに至ったものである」と確認した上で、「原審公判廷において不利益供述をするまでの間、被告人と弁護人との間に十分な打合せがなされなかったこと、そのため、不利益供述をするに至った動機、原因が前記のとおりであったにもかかわらず、これに対する吟味が十分にはなされず、その思い込みから解放される手段も講じられず、その機会もなかったこと、そして、被告人にとっては、弁護人らより捜査官であるTらの方が自分のために便宜を図ってくれているという印象が強かったことが認められるので、被告人としては、捜査段階と原審公判廷との間に質的な差異がなく、公判廷における供述であるからといって、その供述の信用性に影響を与えるほどの状況の変化はなかったものと認められる」「また、弁護人においても、被害者方にあった体毛が被告人に由来するかどうか、証拠に対する検討が必ずしも十分には行われていなかったこともあって、有罪ではないかとの心証を抱いており、そのため、原審第一二回公判期日においては、誘導によって、被告人の原審第一回及び第二回公判期日における不利益供述を肯定する旨の供述を引き出しているほどである」として、「公判廷における不利益供述であるからといって」「安易にその信用性を認めることには躊躇せざるを得ない」とした。<br />これらから、控訴審判決は、輿掛の不利益供述について「被告人が犯人であることの有力な決め手の一つであるとした原判決の判断は、是認することができない」として一審判決の判断を退けた。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">輿掛が物音などに気付かなかった点</span></strong><br />控訴審判決は、近隣住民が聞いている203号室からの物音などに気づかなかったと話していたことが輿掛が犯人と疑われるきっかけの一つとなったとし、この点についても考察した。<br />控訴審判決では、「二〇三号室の近隣居住者らは、本件犯行当時の二〇三号室の物音や騒ぎに気づいているのであるから、隣室にいた被告人がこれに気づかなかったというのは、一応不自然なことのようにも思われる」としつつも、「被告人は、テレビの音量を大きくしたまま、うつらうつらしたり寝入ったりしていたというのであるから、そうであるとすれば、気づかなかったということも十分考えられるところである」とした。<br />また、輿掛が事件当夜23時前ころまで大音量でかけていたステレオの音を、近隣住民の多くが聞いているにもかかわらず102号室の住民はうたた寝していて気づかなかったと証言していることをあげ、「被告人が本件犯行当時二〇二号室にいながら二〇三号室の物音や騒ぎに気づかなかったとしても、このことをもって、被告人が犯人ではないかとの疑いを抱かせるほど不自然なこととは思われない」と判断した。<br />そして、控訴審判決は最後に「被告人が犯人でないことを示唆する事柄について」という章を立て、より踏み込んだ判断を下した。<br /><br /><strong>被告人が犯人でないことを示唆する事柄について</strong><br />近隣住民が「どうして」「教えて」という声を聞いていることや、「犯人は、深夜であるのに、二〇三号室に何らのいざこざもなしに入り得たようにうかがえる」ことから、「犯人は、被害者と親しく、かつ、信頼関係のある者ではなかろうかと強く推測される」と判示し、さらに、輿掛が警察官に「何しよるか」と声をかけたことや、この警察官や201号室の住民、新聞記者と言葉を交わした際も不審な様子はなく落ち着いた態度で対応していたことを、「強姦や殺人といった凶悪な犯罪を犯した直後の犯人の言動としては通常考え難い」とした。<br /><br />控訴審判決は、単なる無罪判決にとどまらず別の真犯人の存在を示唆する完全無罪判決であった。<br />後に弁護団はこの判決を「望み得る最高の判決」と評した。<br />永松裁判長が判決言い渡しを終えると、法廷は再び大きな拍手と歓声に包まれた。<br />その中から、退廷しようとする永松裁判長の背中に向けて傍聴席からひときわ大きな声が上がった。<br />「裁判長! 私はあなたを尊敬します!」永松裁判長は一瞬その歩を止めたが、振り返ることなく法廷を後にした。<br /><br />無罪判決後、福岡県弁護士会館で記者会見と報告集会が開かれた。<br />その後、輿掛と弁護団、支援者はすぐに大分に向かい、判決当日の19時30分から大分県労働福祉会館でも報告集会が行われた。<br />大分での報告集会には250名超が参加して、輿掛の完全無罪判決を祝った。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">裁判後</span></strong><br /><br /><strong>時効成立</strong><br />1995年（平成7年）6月30日の福岡高裁の無罪判決を受けて大分県警は、「裁判の当事者ではない」として記者会見は行わず、刑事部長が「捜査は適切に行われたと確信している」とする談話を発表した。<br />判決内容が警察の捜査を批判している点については、「詳しく判決文を読まないとわからない」とだけ述べた。<br /><br />上告期限を翌日に控えた7月13日、福岡高等検察庁は上告を断念し、輿掛の無罪が確定した。<br /><br />会見した福岡高検の次席検事は、捜査も起訴も理解できるとしながらも、「控訴審のように証拠評価されても仕方のない面もある。最高検とも協議した結果、記録の積み重ねで勝負する最高裁で二審判決を覆すのは、法律上不可能と判断した」と上告断念の理由を説明し、「争点となった輿掛さんの不利益供述（自白）が、不完全な形にとどまり、不明な点が多く、『自白』ととらえるべきではなかった。欲を言えばもっと完全な捜査をしてほしかった」と述べた。<br />検察がこのように警察を批判するのは異例である。<br />大分県警も無罪確定を受けて刑事部長がコメントを発表したが、「警察としては捜査を尽くした。現時点では捜査すべき事柄はないと考える」として再捜査は行わない意向を明らかにした上で、「二審無罪の判決を謙虚に受け止め、今後の捜査に生かしたい」と述べるにとどまった。<br />また、輿掛に対する謝罪の意思を問われると、「捜査は法律にのっとって行われたので、必要はないと考える。被害者のご家族には、精一杯捜査を行ったことをご理解いただきたい」と答えた。<br /><br />12月6日、救援会の会員で大分県議会議員になっていた久原和弘が、県議会一般質問で大分県警本部長に対して輿掛や被害者家族への謝罪の意思の有無を問うた。<br />「高裁判決が厳しく指摘した杜撰かつ非科学的な捜査によって、輿掛さんは一生の一番輝かしい時期に鉄格子のなかに閉じ込められ、かけがえのない青春を無残にも奪われました。この間の本人と家族の苦労を思えば言葉もありません」「さらに、まだ時効まで一年近くあるというのに、警察当局は”県警としての捜査は尽くした。現時点で捜査すべき事柄はない“と述べています。かけがえのない我が子を無残にも奪われ、その無念の思いを、輿掛さんを犯人と信じ、憎むことでいやしてこられた被害者のご遺族のお気持ちを考えると、この談話には何とも言えぬやりきれなさを覚えます。この輿掛さんと被害者のご遺族に対しては、心からの謝罪と償いの意思表示が不可欠と思いますが、県警本部長のご見解をうかがいたい」と質す久原議員に対して、竹花豊本部長は、「適法かつ慎重にできる限りの捜査を行って検挙、送致した」と謝罪の必要はないとの考えを示し、報道を引用する形で、福岡高検次席検事も「捜査は適正で起訴も正しかったと、その談話の中で述べている」として、「高裁判決の内容については捜査機関として謙虚に受けとめ」「今後の捜査に生かしてまいりたい」と答弁した。<br /><br />1996年（平成8年）6月28日0時、みどり荘事件は公訴時効を迎えた。<br />大分県警は「市民からの新しい情報提供はなかった」などとする刑事部長の談話を発表した。<br />これに対して輿掛は、「情報収集の努力をせずに、そういうことを言うのはおかしい」と批判した。<br />また、同志社大学教授の浅野健一も、「捜査当局は時効ぎりぎりまで精一杯の捜査を展開することで、公務員としての遺族への責任を果たすべき」と批判した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">被告人のその後</span></strong><br />1995年（平成7年）8月3日、大分市内のホテルで「輿掛さんの完全無罪を祝い、新スタートを励ます会」が開催され、120名余りが参加した。<br />13年間を拘置所で過ごした輿掛は、太陽の下で体を動かして働きたいと自動車の運転免許を取得し、11月1日からは大分県特殊技能センターでフォークリフト・移動式クレーン・車両系建設機械など7つの特殊免許を取得して、1996年（平成8年）4月1日に大分市内の石材会社に就職した。<br /><br />1999年（平成11年）、不況の影響で石材会社からリストラにあったが、その後は自らダンプカーを購入し、ダンプ運転手として働いた。<br />輿掛は、仕事のかたわらボランティア活動や労働組合運動にも積極的に関わった。<br />みどり荘事件をきっかけに大分県で始まった当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」、弁護団の弁護士が関わっていた労働組合「大分ふれあいユニオン」、「HIV患者を支える会」や「ハンセン病国家賠償訴訟を支える会」などで活動し、大分ふれあいユニオンでは書記次長、ハンセン病国家賠償訴訟を支える会では事務局長を務めた。<br /><br />1996年（平成8年）5月26日、輿掛の社会復帰を見届けた救援会は総会を開き、当番弁護士制度を支える「当番弁護士制度を支援する市民の会・大分」に発展させることを決めて解散した。<br />弁護団は、1997年（平成9年）に、みどり荘事件の弁護活動をまとめた『完全無罪へ13年の軌跡-みどり荘事件弁護の記録』を出版した。<br /><br /><strong><span style="font-size:large;">評価・影響</span></strong><br /><br /><strong>裁判自体に対する評価</strong><br /><br />ノンフィクション作家の小林道雄は、著書の中で一審判決を評して「裁判官は法廷の雛壇に目を開けて座ってはいただろう。だが、その目ははたして覚めていたのかどうか」と述べて『夢遊裁判』と名付けた。<br />この言葉は、みどり荘事件の裁判を表す言葉として広く人口に膾炙した。<br /><br />弁護団の安東弁護士は、控訴審判決を「望み得る最高の判決」と評価したが、小林は「私としてもそうは思う」としつつ、控訴審判決の中の二つの点は受け入れがたいとしている。<br /><br />一点目は、控訴審判決が輿掛の不利益供述の任意性を否定する論拠の一つとして、輿掛が「心的ストレスに対する抵抗力が弱く、危機的状況において容易に心的破綻に陥る傾向がある」と指摘した点である。<br />小林によれば、代用監獄で厳しい取り調べが行われれば誰でも容易に虚偽自白に追い込まれかねないのであって輿掛の心理特性が原因ではないとし、また、控訴審判決が採用した輿掛の心的特性は起訴前の精神鑑定が「犯行時に心因性ショックが見られたことから推測されるように」として認定したものであり不当なものであると指摘している。<br />この点については、心理学者の浜田寿美男も「真っ白無罪の『最高の判決』に一点、汚点が染みているよう」と述べている。<br /><br />二点目は、一審での輿掛の不利益供述の維持について、輿掛と弁護団の意思疎通が不十分で「不利益供述に対する吟味が十分になされず、その思い込みから解放される手段も講じられ」なかったとした点である。<br />弁護団が控訴審で痛烈な自己批判を展開した成果ではあっても、一審の無期懲役判決は「あまりにも愚かな一審裁判官の質にあった」のであって、弁護団の責任であったかのような表現には抵抗があるとしている。<br />また、久留米大学准教授の森尾亮らは、一審判決の事実認定は警察や検察の立てたストーリーを事実に基づかずに「あり得べからざることではない」と単に主観的に同意しただけのものに過ぎないと批判し、一審判決が有罪の根拠とした事実認定を否定した控訴審判決をすぐれた判決として高く評価している。<br />ただし、控訴審がその判決を下すまでに6年3か月を要していること、203号室に輿掛の指紋がなかったことに触れていないことを控訴審の問題点として指摘している。<br /><br /><strong>DNA鑑定に関する批判</strong><br />みどり荘事件は、裁判所の職権でDNA鑑定が実施された日本で最初の裁判となった。<br />鑑定人である三澤教授らは、10年以上前の試料の分析方法としてDNA鑑定の中でも最先端といえたマイクロサテライトを用いたACTP2法を採用した。<br />それまで日本ではACTP2法によるDNA鑑定が行われたことはなく、マイクロサテライトを用いたDNA鑑定自体が日本では初めてであった。<br />この鑑定は控訴審判決で信用性を否定されたが、弁護団などは、それ以前の問題として、こうした発展途上の技術を刑事鑑定に用いたことを批判している。<br />すなわち、被告人の運命を左右する刑事鑑定においては、仮説と実験を繰り返す科学研究とは違って間違いは絶対に許されないのであるから、鑑定の基礎となる理論が専門家の間で広く承認されており、かつ、鑑定手段も技術的に確立されたものである必要があり、未成熟な先進的な技術を採用することは許されないとする批判である。<br />この点について一橋大学の村井敏邦教授は、「刑事裁判は実験場ではない。むしろ、そのような実験場とはもっともほど遠いところにあるべきものであり、最も保守的な場であることにこそ意味があるとさえいえる」と述べている。<br />弁護団は、三澤教授らの鑑定に対する姿勢を「科学研究と刑事鑑定の違いをわきまえないもの」「犯罪の成否を左右するという、鑑定人としての社会的責任を自覚してなかった」と批判している。<br />また、みどり荘事件では、弁護団が鑑定人に鑑定資料を提出させることで、鑑定の経過や手法を検証することができた。<br />もしそうでなかったなら、DNA鑑定の結果をもって科学の名のもとに冤罪が継続する可能性があった。<br />このことから、こうした先進的な科学技術を刑事裁判で採用する際には、鑑定結果を盲信するのではなく、具体的な鑑定経過の資料を開示させて、裁判に関わる法律家が信頼性を自ら判断できるようにすることが必要であると指摘されている。<br /><br /><strong>報道に対する批判</strong><br /><br />大分合同新聞本社（1995年竣工）<br />1981年（昭和56年）6月30日に輿掛が2回目の事情聴取を受けて以降、マスメディアは輿掛を重要参考人として犯人視する報道を続けた。<br />支援者らによれば、こうした報道は地元紙の大分合同新聞が最もひどかったという。<br />大分合同新聞は、6月30日の夕刊で「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」という見出しで「Aに対する二十九日までの事情聴取の中でも、Aの主張するアリバイには確固とした裏付けがなく、捜査本部ではAの追及に全力を挙げている」と報じたのに始まり、7月9日には「捜査難航-乏しい物証-交友関係者はシロ?」として「捜査本部では、すでに重要参考人として事情を訊いた大分市内の若い会社員を依然マークして身辺捜査を続ける」とする記事を載せ、7月30日には「捜査に焦りの色も」と題して「捜査開始当初から捜査本部が強い疑惑を捨てていない人物が大分市内の会社員Aだ」とし、隣室にいながら物音を聞いていないと主張していることや新しい傷があったことなど「多くの不審点が浮かんでおり、身辺捜査を通じて出てきた関連情報からも疑惑は消えていない」と報じた。<br />さらに、9月27日には「詰めの捜査へ-消去法で絞り込む」という見出しで捜査本部長である藤波重喜大分署長のインタビューを載せ、この中で輿掛について聞かれた藤波署長は、「特定の人物については逮捕もしていないのにどうこう言うことはできない」としつつも「これまでリストアップした中に犯人が必ずいる」と語っている。<br />逮捕当日の1982年（昭和57年）1月14日には、大分合同新聞の朝刊に「”隣室の男”逮捕へ」の大見出しの下、「女子短大生殺人事件　体毛、血液型が一致　大分県警が断定」「事件直後、新しい傷」に続き、小さく「本人は否認のまま」という見出しが紙面に踊った。<br />記事では、202号室で他の女性と同棲していた「大分市内の会社員A」の逮捕令状を請求と報じていた。<br />その日の夕刊では、手錠をかけられて連行される輿掛の写真を大きく載せて「ホテル従業員逮捕」「執念……7カ月ぶりに-ムッツリした犯人・輿掛」と報じ、翌15日の朝刊では、「けさから本格追及-短大生殺しの輿掛　いぜん否認続ける」の見出しで「是が非でも輿掛を自供に追い込む構え」「輿掛はふだんはおとなしいが、酒を飲むと狂暴になるタイプ」などと報じた。<br />そして、1月22日の朝刊では、輿掛の「自供」を発表する藤波署長の写真を載せ、「輿掛やっと自供」「『私に間違いない　恋人とけんか……カッと』」[78]「良心ゆさぶる説得で……」の見出しの下、「事件直後の捜査本部による数回の取調べに対して、ふてぶてしいほどに犯行を否認し続けた輿掛も、捜査本部の長期にわたる執念の捜査によって得た体毛の鑑定結果やその他多くの状況証拠の前に屈した」「二一日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と犯行を全面的に自供した」「この自供により、難事件といわれた女子短大生殺人事件は七カ月ぶりに一気に全面解決へ向かう」と報じた。<br />また、犯行の動機として、輿掛が「恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。<br />そこへ（被害者名）が帰ってきたので……」と供述しているとされたが、そのような供述調書は存在しない。<br />逮捕までは匿名ではあったが、狭い地域社会では誰のことかは周知のことであり、輿掛はもとより親類までが報道被害を受けた。<br />輿掛によれば、報道後、母親はパートや銭湯にも行きづらくなり、逮捕後は長姉の元に引き取られたが、その姉たちも嫁ぎ先で肩身の狭い思いをし、うち一人は離婚している。<br />珍しい姓であったため「輿掛」の名前では仕事につけず、嫌がらせ電話が絶えないため電話番号を変えて電話帳にも載せないようにしたという。<br />当時のマスコミのこうした報道姿勢に対して、弁護団は、推定無罪の原則を尊重する姿勢に欠け、自白偏重の捜査など権力の行き過ぎをチェックするマスコミの使命は全く見いだせないとし、これらの記事を読んだ近隣住民などの証言や裁判官の心証に大きな影響を与えることになったと批判している。<br />ノンフィクション作家の小林道雄も、こうした警察発表を垂れ流すだけの報道は裁判官に予断を生じさせることになり、起訴状一本主義は有名無実と化すとし、「輿掛さんを犯人にしたのは、警察・検察・一審裁判所の三者であり、それに加えてマスコミが輿掛さんを抹殺しようとした。この四者すべてが謝罪していない」「この四者の中でマスコミはいち早く謝罪し、他の三者にも謝罪するように迫るべきだ」と主張している。<br /><br />1995年（平成7年）6月30日の無罪判決を受けて、大分合同新聞は翌日の朝刊で「DNA鑑定の信用性否定」「『別に真犯人』を示唆」と報じ、「『科学鑑定』に警鐘　自白偏重にも反省促す」とする解説記事を掲載した。<br />他社も、「現代型冤罪」「自白偏重主義」「危険な予断捜査」「真犯人像を示す」などと警察を批判する記事を掲載した。<br />西日本新聞は、時効成立前日の1996年（平成8年）6月27日から5日間、当時の報道姿勢に対する自戒を込めた「時効　それぞれの15年」という記事を連載した。<br />しかし、当時の報道について輿掛に謝罪した報道機関はなかった。<br />みどり荘事件の報道を検証した同志社大学教授の浅野健一らによるアンケートでは、報道各社は輿掛に謝罪しない理由として「謝罪の要求を受けていない」などとした。<br />しかし、輿掛や弁護団などは、「自分に非があるとわかっているのなら、こちらから謝罪の要求をしなくとも自主的に謝るのが常識だ」として、自発的謝罪を求めている。<br />また、大分合同新聞は「輿掛さん本人がいったん自白した」ことを謝罪しない理由の一つとしたが、これに対して浅野教授らは、公判記録から輿掛の供述が「自白」とは呼べないことは明白であると批判している。<br />弁護団は、報道機関に対して、輿掛が無実であったことを根気強く報道し、読者の誤解を解くよう努力する責任があると主張している。<br />浅野教授らも、地方の事件では地元のメディアの影響力が大きくそれだけ責任も重いとして、大分合同新聞が率先して謝罪と検証を行って輿掛や家族の社会復帰を支援するのが地元メディアの役割であると提言している。<br />浅野教授は、著書の中で「みどり荘事件報道の検証を怠り、報道改革に努力しないマスコミ人はジャーナリストの名に値しない」と述べている。<br /><br /><strong>当番弁護士制度の創設</strong><br />徳田弁護士は、みどり荘事件での起訴前からの弁護活動に大きな悔いを抱いていた。<br />それは、「もし、逮捕直後からついていて連日の接見を必ず確保していたら、あんな自白は絶対になかった」「輿掛さんとの意思疎通がうまく行かず、報道に影響されて、弁護団も輿掛さんが現場にいたのは間違いないと思ってしまった。逮捕直後の弁護活動がいかに重要かを再認識させられた」という反省であった。<br />このみどり荘事件の反省に立って、徳田弁護士は「起訴前弁護はあらゆるケースに必要ですが、否認事件には特に徹底的に保障されなければならない」「なんとしてでも自分たちが先頭に立って当番弁護士制度をやり抜かなければ」との決意のもと当番弁護士制度の発足に奔走し、1990年（平成2年）9月14日、大分県弁護士会が日本で初めての当番弁護士制度「起訴前弁護人推薦制度」をスタートさせた。<br /><br /><a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" rel="nofollow"><br /><img border="0" width="300" height="250" alt="" src="https://www29.a8.net/svt/bgt?aid=200609660703&wid=001&eno=01&mid=s00000015198001027000&mc=1"></a><br /><img border="0" width="1" height="1" src="https://www18.a8.net/0.gif?a8mat=3BFREK+BMJR1U+399O+644DT" alt="">

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            <category>1980年代</category>
      <author>takaHERO</author>
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